気分転換は神社へお参りする私 (nya.1251)
相変わらず効果覿面で心に風が吹き通ります。 (2020年4月3日)
先日、以前から結構当てにしていたものの「当てが外れる」ということがあり、どうにも気分が沈んで、何やら悲しいような、泣きたいような気分が晴れず、「どーしたもんだか(嘆息)」と思っていました。
世間がというより世界が「感染」という言葉に埋め尽くされ、先行きが見通せない上に、耳に入ってい来るのは悲観的な響きの言葉ばかりなのにも食傷気味で、心が「きれいなもの」を求めていました。
春のお彼岸には、風太がお墓参りに付き合ってくれたので、笑いながらご先祖様と長い時間話をして「スッキリ」したのですが、どうやら「まだ足りない」ようなのです。
「・・・、んじゃぁ、神さまにもご挨拶に行こうか」と、そこは、ホレ、プータローの私ですから、思い立つとすぐにGO!!です。(笑)
と、言うのも例年ならば、4月は奈良の石上神宮へ「乳がんステージ4サバイバルお礼参り」に行くことにしているのですが、この世情ではちょっと「冒険」が過ぎるように思えて躊躇していました。
だから、ここはイッチョ、すぐご近所の「産土神」さまの神社にお参りしようと思った次第です。
神社仏閣に「萌え」る私の気分転換にはもってこいです。
お墓参りも心が落ち着くので「好き」なのですが、こちらは散歩コースの中にあるため、用もないのに週一でご先祖さまと語らっていて、気分転換になるようなイベント感がないんですよね。(笑)
私の住む田舎には、「産土神」の神社が二つあります。
昔の「村」が4つ集まって1つの「大字(おおあざ)」となり、その「大字」の住人がお祀りしお参りする神社が2つあるのです。
1つは車で3分の隣村にあり、もう1つはそこから更に車で3分の隣の隣の村です。
2つ目の神社は、私の家から間に水田を挟んで1kmほど離れているのですが、村が山際にUの字に並んでいるため、その神社の境内にある桜の大木が見事な満開を迎えていることが、2階の自室の窓の正面に見えるのです。
今年は「ジシュクジシュク」という言葉が耳タコになっている間に、あれよあれよと桜が咲いてしまい、折角の年に一度の「田の神さま」の晴れ姿を堪能できないままになっていました。
自室から外を眺めると必ず目に入る神社の桜が、気分が沈んだ私を呼んでくれているように思え、導かれるままにお参りをしました。
するとどうでしょう、毎年「お花見、お花見」と大騒ぎしては遠くに桜を求めていた自分が愚か者に思えるほど、見事な満開の桜が迎えてくれました。
何の変哲もない平日のお昼間に、ど田舎の神社にお参りする物好きは私くらいのものですから(笑)、風がなくてもひらひらと花びらを落とす満開の桜の、花冷えの風に吹かれて舞い散る桜吹雪を独り占めです。
それだけでも十分なのに、大きな古木の桜は無数の花を咲かせ、その花に無数の小さな蜂が集まり、近付くとぶーんという羽音が音のドームを作って桜の木を包んでいて、その中に入った私は、「桜と私」だけの異空間に浮かんでいるようでした。
様々な偶然と必然が気の遠くなるほど重なって、「今」、田舎の神社で桜吹雪に包まれながら、楽しくなって声を出して「ははは」と笑う私を「ここ」へ運んできたのだと思う時、「これが奇跡なんだ」と何度も思いました。
鎌倉時代にはこの場所にあったとされる田舎の神社らしく、染井吉野ではなく山桜であることも好ましく、この山桜の古木が若木だった頃のことや、何度春を迎え、こうして花を咲かせたことだろうと思わずにはいられません。
その間、桜の花の下を行き交う人の姿かたちや服装は変わろうとも、神さまに手を合わせたいと思う人の、喜怒哀楽の祈りは少しも変わることはないのでしょう。
私自身、そう思いながら飽かず桜の古木を見上げるばかりで、神社の本殿に手を合わせて柏手を打つより遥か手前で、心の中に澱んでいた鬱屈がすでに雲散霧消しているのでした。
結局のところ、その後本殿で手を合わせた私は「いつもありがとうございます。私なりに生きますので、これからもよろしくお願いします」と言うくらいしか思いつかないほどスッキリしてしまっていました。(笑)
恐るべき「神社パワー」なのか、恐るべき「桜吹雪の怪」なのか、恐るべき「私の楽観主義」なのか、何だかよく分かりませんが、神社を立ち去る時の私の心は、霊験あらたかにも心地よい風が吹き通って、穏やかな気分が復活していました。
護られている、導かれていると感じることから遠ざかるほど、人の心には不安や恐怖が芽生えます。
逆に言えば、どれほどの苦境にあろうと、護られている、導かれていることを疑わずに「知って」いれば、生きることを楽しめるのでしょう。
もし、私のように少し心が沈みがちな方がおられたら、ぜひお近くの神社へいってみてください、おススメです。(笑)
(おしまい)
次は
です。
こんばんは。たおです。
神社にまつわる不思議な話があります。
私の両親は、20年余り前に、関東から彼らの生まれ故郷である南の島に戻りました。飛行機を乗り継がないと行かれない所なので、訪ねて行く時はいつも数か月前にツアーを申し込んでいます。
ある日、「向こうの世界の人が見えてしまう」という知人が「近いうちにご両親の所に行くの?」と訊いてきたので、「再来月くらいに行ってみようと思っているけれど、まだチケットの手配はしていないの」とこたえると、「神社らしきものが見えるんだけど、あなたが近いうちに来るって言ってるよ」更に「もし、予定していないなら、なるべく早く行った方がいい」と言うのです。
理由を訊ねたら「それはよくわからないけれど、とにかく、あなたは近いうちに行ったほうがいい」と。
その数日後、父が脳梗塞で緊急入院しました。
幸い、半身麻痺になったものの、大抵のことは介助無しにできるほど回復しました。
それにしても、なぜ神社?なぜ私に知らせたのでしょう。
彼女に見えた風景から考えて、「おそらくここだろうと思われる神社」を、私は知らなかったし、母も名前は知っていたけれど行ったことが無かったようです。
父を見舞った後に、お礼参りで訪ねたその神社は、小道の奥の目立たない場所にあり、敵から島を護ったという伝説の人物が祀られていました。
島にある神社の中で一番小さな神社なのですが、一番穏やかで厳かな感じをうけるのは、私を呼んでくださったという感謝の気持ちだけでなく、相性のようなものがあるのではないかと思います。
また、我が家の近くに、石を御神体として祀っている神社があるのですが、次男がその神社に行くと落ち着くらしく、受験の時や私の手術の時にもお参りに行ったそうです。
日本人にとっての神様は、人知の及ばない自然への畏れや、感謝の先にあるもので、宗教ではなく、「お天道様が見ているよ」と言われてハッとする日本人としての在り様というか…GODとは違うものなのだなと思うのです。
何だか、長々と、とりとめのないお喋りになってしまいました。ごめんなさい。
では、この辺で。おやすみなさい。
そうですか、たおさんも「呼ばれた」経験がおありなんですね。
そういう経験を持つと、「ああほんとうに、この世の半分は目に見えない力で成り立っているのだ」と得心します。
そして、そう得心した筈なのに、しばらくするとまたぞろ自分の力で何とかしよう、何とかできるはずと思い込むことを始めて、、、不安や恐怖が心を占めるようになり、「いやいやいやいや、しっかり自分、目に見えない力のことを忘れてるよ」と、この繰り返しです。(笑)
草木国土悉皆成仏、あらゆる自然に神性を感じる日本人は、何度でも基本に立ち返ることが容易な分、得をしているように思います。
目に見えない力を信じ、頼りにできる人は幸いです。
護られていることを知っている人は幸いです。
神さまと友達になれる国に生まれたことは幸いです。
永遠を ありがとう
当てにしていたことが外れて、世界は災禍の只中にあり、
桜の花が散っている、という無常の刹那の一瞬間に
永遠性を感じました
全てが流転を閱(けみ)する中、不確かで儚さに足元をすくわれる
ような不安に苛まれていたとしても....
桜吹雪の中 たった一人佇むふるゆらさんは永遠の美しい一瞬間を
持ったのではないでしょうか
近づいて 離れていく
築き上げて 壊される
挑戦して 失敗する
成功して 失墜する
立ち上がって 倒される
出逢って 別れる
生まれて 死ぬ
私達は誰もいつもいつもこの繰り返しです
死はいつも生を孕んでいて 絶望は希望の前触れです
寄せては返す波のように永遠に繰り返す不確実性の中に
あっても何か美しいものを一瞬でも見いだしたなら...
それは永遠の命なのではないでしょうか
永遠とはどこまでもどこまでもどこまでもどこまでも
ずーっと いつまでもいつまでも いつもいつも、ということですね
世情が不安に満ちている今、田舎に住まう者の「特典」は、「それでも地球は回っている」と目の前に四季の移ろいを感じられることかなと、思います。
人間界がどうであれ、人間界のルールや思惑とは無縁の世界が、この世に確かにあるということは、道端に咲くすみれを見れば分かるのです。
そして、山や川や桜の古木は、このように人が右往左往する様を既に何度も目にしたことでしょう。
そう思うと、ストンと心が落ち着くのです。