もはや「ゴールデンなウィーク」でした 河川敷散歩 (nya.1636)
「どこか」ではなく「ここ」にあるゴールデンな時 (2021年4月23日)
今年の季節の巡りは早く、ゴールデンウイークにはまだ至らないのに、晩春の河川敷はすでに「ゴールデンなウィーク」に突入しておりました。
そしてそこは、十分に「極楽」の条件を満たしていました。
ひろくたかく青い空、豊かな水をたたえ穏やかに流れる川、芽吹きの季節特有の透明感のある若葉、瑞々しい草木、地面を覆う小さな野の花たち。
ある鳥は川面に群れて浮かび、ある鳥はエサをついばみ、ある鳥は歌い。
日差しは燦燦と降り注ぎ、首筋を抜ける風は僅かに冷たさをはらんでひたすら心地よく。
川の流れが岸辺を洗う水音と鳥のさえずりだけが聞こえる静けさ。
私が訪れた晩春の河川敷の風景です。
「極楽」、、、極楽浄土、パラダイス、常春の国、、、人によって思い浮かべる「極楽」の風景は千差万別なのでしょうし、もっとゴージャスなイメージだったり、もっと刺激的だったりもするのでしょうが、私にとっては十分な「極楽」でした。
あり余る程のものは持ち合わせていませんが、衣食住が満たされ、天災以外で危険を感じることのない、自然豊かで実りの多い平和な土地で、時間に追われることなく穏やかな暮らしを営み、気まぐれに立ち寄った河川敷が春に満たされていたならば、これはもう、紛れもない「極楽」です。
この日は、ハローワークに行った帰り道に立ち寄りました。
今年の1月から順風満帆のプータロー生活を送っている私は、かたじけなくも有難いお国からの「失業給付金」を頂戴すべく、「認定」継続のためにせっせと「呼び出し時間」に応じてハローワークに馳せ参じました。
その日に指定された時間が10時30分であったため11時には解放され、これぞプータロー生活の醍醐味「さてさて、何をしようかな?」と思ったのです。
まずはハローワークの近くの激安スーパーに向かいました。
私は自分が乳がんステージ4だとがん告知を受けて以来7年間、毎朝「にんじん、りんご、レモンジュース」を飲み続けているのですが、驚くことに毎朝未だに「ああ、美味しい」と感じ続けていて、「同じものばっかり飽きたな」と思うことが一度もありません。
「美味しい」と感じている間は、体が求めているのだろうと思うので、スーパーに立ち寄る度にそれぞれのお店のにんじんとりんごとレモンの値段を確認する習慣が確立しています。
で、今は「私基準」からすると、にんじんの値段が高騰しているため、激安スーパーならどうだろうと思ったのです。
・・・(嘆息)思ったよりお安くありませんでした・・・。(嘆息)
「しょうがない、帰るかな」と帰途についた途端、「そうだ、お天気もいいし、河川敷に行ってみよう♪」と閃きました。
そのようにして行き着いた場所が「極楽」だったわけです。
今までの人生、体調の悪さや体力の低下を背負いながら、仕事と時間に追われ、自分の未熟さや欠落を嘆きながら、自分でもよく分からない何かに「抗い続け」「戦い続け」ることを強いて生きてきました。
乳がんステージ4だと知り、新しい自分になろうと決意したにもかかわらず、長年をかけて培ったそれらが「慣性の法則」となって、逃れられないまま仕事を続けました。
会社の規定の最長3年間の病気休職を過ごすうちに、心の有り様に地殻変動が起こり、「もう、戦う必要も、自分が無能ではないと証明する必要もないんだ」と、自分が求めてやまなかった想いが本当の意味で腑に落ちました。
『放てば手に満つ』(道元禅師)、「抗うことを収めて、流されるだけ流されてみよう」と得心して退職し、数か月後、春が巡ってきて終わろうとする時、川辺で「極楽」に身を置くことは、何とも私に相応しい「極楽」じゃないかと思い、一人笑いました。
「極楽」のイメージが千差万別であるように、100人生きれば100通りの「至る境地」があると思います。
私の場合もここがゴールではなく、寄せては返す波のように心は揺れ続け、時の流れが否応なく変化を促し続けて、また「別の境地」に立つこともあるでしょう。
ただ今は、ハローワークと激安スーパーの帰り道に、晩春の河川敷で「ああ、極楽だな、ここは」と思えた自分を喜びたいと思った次第です。(笑)
(おしまい)