興福寺の阿修羅像と「知る」ということ (nya.377)
「興福寺の阿修羅像さま」はなぜ寂しそうなお顔をされているのかと考えるに (2017年10月20日)
先のブログで「責難(せきなん)は成事(せいじ)にあらず」という言葉を採り上げて以来(参照:「責難は成事にあらず」ということ (nya.342))、私の脳裏に興福寺の阿修羅像さまが住みついてしまわれました。
なぜそうなったかというと、「責難は成事にあらず」→「知るということは難しいな」→「興福寺の阿修羅像」さまという図式のせいです。
はい、まださっぱり分かりませんね。(笑)
ごもっともです。(笑)
「興福寺の阿修羅像さま」は、「知る」ということを表わしておられるのではないか、とされているのです。
この神秘な表情は、荒々しい心が仏の教化によって迷いから目ざめ、愁眉を開きつつある顔付きだといわれています。
まさにその通りで、恐ろしい顔から浄化された顔へと移り行く過渡期の表情を、見事に表現しています。
http://asura.kokaratu.com/home.html
「知る」ということは、本当に難しいし、厳しいです。
「知る」ということを考える度に私はこの阿修羅像を思い浮かべます。
この場合の「知る」は、いつの間にか忘れてしまえるような他愛のないものではなく、一度知ってしまうと「知る前に戻れない」たぐいの「知る」です。
分かりやすい例を挙げると、私は2014年3月に自分が【乳癌ステージ4】だと知りました。
癌の告知を受ける直前と直後、私という人間は1mmたりとも変化していませんが、「知ってしまった」瞬間から、これまでとは異なる私になりました。
癌告知を受けるずう~っと以前から、私は【乳癌ステージ4】の身体で生きてきたのですから、「知らなかった」とはいえ私は末期がん患者だったのです。
でも感覚からすれば、【乳癌ステージ4】だと「知った」瞬間から、末期がん患者に「なった」のです。
この劇的な変化が「知る」ということであり、人の心の不思議だと私は思うのです。
私は神社仏閣を訪れると「血沸き肉躍る」という人から理解されにくい人間であり、その上「見仏(けんぶつ)」して美しい仏像に出会うと「恍惚」となってしまう特異体質です。(笑)
ただし、仏像ならなんでも有難く手を合わせてしまうものの、あくまで「見仏(けんぶつ)」を楽しんでいるので、不遜にもそこには「えり好み」が存在します。
天平白鳳(奈良時代)の頃のどこか宇宙人めいた雰囲気と、鎌倉仏師が手掛ける、時代を800年は先取りした「戦隊ヒーロー」のフィギュアのような仏像が好物です。
「あんまり好きじゃない、平安の臭いがする」と感じて来歴を読むとやっぱり平安時代の仏像だった、という不思議な嗅覚があります。(笑)
さて、今日のブログの「興福寺の阿修羅像」さまは、奈良時代の「三面六臂(ろっぴ)」の乾漆像です。
「阿修羅」という言葉の持つ意味と、仏像の静けさのギャップに萌えてしまう「日本国民の永遠のアイドル的存在」で、もちろん国宝です。
「阿修羅」とはインドの古い神さまです。
本来サンスクリットで「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされるが、帝釈天の台頭に伴いヒンドゥー教で悪者としてのイメージが定着し、帝釈天とよく戦闘した神である。
仏教に取り込まれた際には仏法の守護者として八部衆に入れられた。
興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記している。 帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶ。
http://asura.kokaratu.com/asura02.html
「阿修羅」の「修羅」は「修羅場」の「修羅」です。
常に怒り、倦まず闘い続けた神さまなら、不動明王のように「憤怒」の表情で表わされて当然なのに、憂いを含んだ表情、静かな佇まいにはっとさせられ、思わず「何があったの?大丈夫?」と声を掛けたくなる儚さです。
少年とも少女とも見える中性的な面立ちの阿修羅像は、少し眉根をよせて悲しそうな表情で前を見つめています。
細くしなやかな腕は6本あり、天に突き上げた両手が次第に下がり、最後に胸の前で合掌しています。
最初にこの仏像にお逢いしたのは大学生の時だったのですが「これはアニメだ」と思いました。
6本の腕は3対の両腕の動きで心の変化を表しているように感じたのです。
「戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる」という闘い続ける存在であった状態が、両腕を天に差し上げている姿。
仏法に出会い、これまでの自分に疑念を持つようになった心の迷いが中間の両腕の姿。
最後の合掌をしている両腕は、仏法を「知る」ことで、闘いを止めることを選択した心の姿。
しかしそれは「仏法に出会って怒りが治まりました、めでたしめでたし」という勧善懲悪的なものではありません。
「知る」ということは、「知らないでいる」ことも悲しいし、「知ってしまった」ことも悲しいということを、切なげなお顔の表情で表現されているからこそ、見る者の共感を呼ぶのだと思います。
仏法を「知る」ことがなかったら、阿修羅は自分に疑問を持つことなく闘い続けることが出来たのです。
常に「怒り」を持つことは楽しいことではないけれど、「無邪気に自分が正しいと信じられる」という点では、楽だったとも言えます。
それなのに、仏法を「知ってしまった」ばっかりに、それまで通りに怒りを抱えながらもそれを解き放ち闘うことが出来なくなってしまったのです。
それまで自分が「知っている」と思っていたこと自体が誤りであったと「知る」ことは、切ないです。
一旦「知ってしまう」と、「知らなかった」状態がどれほど恋しくても元に戻れないことは悲しいです。
「知ってしまう」と、以前は見えなかった「自分の振る舞いで傷付く人」が見えてしまいます。
「知ってしまう」と、自分だけが苦しみを抱えているのではないことに気付いてしまいます。
「知ってしまう」と、常に自分が正しいわけではないことを「知り」ます。
そして「病を得る」と強者や有能な人だけが「生きる喜び」を得られるのではなく、この世はもっと複雑で、多様な「生きる喜び」に満ちていることを「知り」ます。
・・・・・では、どうすればいいのかというと、「知ってしまった」ことはほんの一部で、大部分は「知らない」のだということだけ「知って」、「自分が絶対正しいということはない」ことだけを忘れないで、やっぱり無邪気に生きるのがいいと思うのです。(笑)
「知る」ということの大きさと、「知る」ことの意味をしみじみ考えるのです。合掌。
追伸、仏像大好きな私の№1は「東大寺戒壇院 広目天さま」
もう、30年近く不動の№1です。
このようなお方に「護っていただきたい」と思いますし、このようなお方が「微笑まれる」と、たぶん破壊的に可愛いのではないかと萌えます。(笑)
お顔のアップの絵葉書をアイドルのブロマイドのように自室の鏡の前に飾り続けています。
次は
です。
ふるゆらさ~ん またまたお導きでこちらの記事を再読することになり
ふるゆらさんの言葉に気づかされましたし、癒されました。
ありがとうございます。
”この場合の「知る」は、いつの間にか忘れてしまえるような他愛のないものではなく、一度知ってしまうと「知る前に戻れない」たぐいの「知る」です。”
もう戻れない自分がいます。そして私も阿修羅様と同様に手を合わせています。
弥生の空さん、お久しぶりです。
残暑の中にも秋めいて来ましたが、そちらの秋はいかがですか?
「知る」、、、人が生きることは、「知る」ことを重ねる歳月です。
「知る」度に無邪気な自分を失い、思い惑うことが深まりますが、それこそが生きる醍醐味です。
『之れを知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知る也』
ほんとうに、生きるって面倒臭くて愛おしいですね。
土門拳の写真集「古寺巡礼」をご覧になったことありますか?
金太郎さん、以前のコメントにも土門拳さんのこと書かれてましたね。
仏像写真家のビッグネーム、私も写真集を1冊持ってますよ。
でも「私の」戒壇院の広目天様は、奈良の写真家入江泰吉さんの「絵葉書」です。
リアルの広目天様にお会いする前に、奈良の土産物屋で入江さんの絵葉書セットに出会い、写真越しに一目惚れしました。
ステキな横顔なんです。(笑)
私は全5集持っています。
高校では写真部に在籍。
その頃薬師寺で1週間ほど暮らすことがあり、寺社仏閣や仏像に心惹かれました。
阿修羅像の人気は突出しているようです。
土門さんの写真集は気楽に開くことに抵抗があり、雲の写真集が普段のお気に入りです。
今、一番の楽しみは言うまでもなくふるゆらさんのお写真ですけどね。
しゃ、しゃ、しゃ写真部!!
そりゃもう「玄人」さんじゃありませんか!!
そんなお方にお褒めいただいている素人の私は、平身低頭すべきか天狗になるべきか・・・・。(笑)
しばらくPCの前でフリーズしましたが、考えてみれば「今まで通り」のことしかできないことに気付きました。(笑)
気に入っていただいてありがとうございます。
これからも、血統書に無縁な普通の日本猫、これといって特筆すべきこともない田舎、平凡な腕前の写真と文章、この「三種の神器」でぽてぽて歩みます。(笑)
修羅場の由来、、、阿修羅様からなのですね!
昨夜は台風のような風の一夜でした。風の音で目覚めてしまい、ブログ開くと、風太さんのかわりに、阿修羅像が、、、窓の外のゴーゴー地響きの様な効果音のせいで、あわわわ、、、ビックリでした。
それで、今また落ち着いて、読み返しました。
一番最初、足るを知る、、、の知る、を思いました。これは、事実を知るというより、感覚ですから、ちょっと別ですね、、、。〈足る〉は、知ったつもりで、すぐに忘れます(汗)
阿修羅像のお顔の中に、知った、、さて、、どう生きるか、、という問いかけのようなものを感じます、、。
見るその時の自分によってどうみえるのか、、阿修羅像を、時折、しみじみ眺めてみますね。
広目天様は強面のお方ですね。手に持たれた筆は、、?きっと学問のあるおかたなのですねー?
興福寺の阿修羅像のお顔は「はぁ、生きるって切ないねぇ」と言われているような気がします。(笑)
自分の正しさに確信が持てなくなることが「大人になる」ということなのでしょうか。
生きていれば否応なくいろんな経験をして学び「知る」ことから逃れられないのです。
でも「無邪気」ではいられず、「狡さ」を身に着け、太々しく生きる「大人になった自分」もなかなか気に入っています。(笑)