クリスマスは一条の光を喜ぼうと思う (nya.421)
クリスマスイブにろうそくを灯すように (2017年12月24日)
メリークリスマス☆
私のような年代の日本人にとって、イエスキリストさまのお誕生日である12月25日のクリスマスを迎えるからと言って、日本人同士会う度に「メリークリスマス」と朗らかに挨拶するのはこっぱずかしいものがあります。(笑)
去年のブログにも書きましたが、イエスキリストさまのお誕生日クリスマスは、太陽が復活する最初の日である「冬至」とイエスキリストさまの「復活」を重ね合わせる意図をもって「選ばれた日」です。
地球という星に生まれ、太陽の光に神を感じる者としてお祝いするにふさわしい日であると思います。
「今日から太陽の力が強まっていく日」がクリスマスならば、「太陽の力が最も弱い日」がクリスマスイブであり、その日の夜に灯すろうそくの灯は、「最も暗い夜」を迎えても光を見失うことがないように祈る人々の心です。
「最も暗い夜」に灯されるろうそくの光は、小さく弱々しいものではあるけれど、それぞれの人が抱える悩みや悲しみを長く続く厳しい冬の寒さになぞらえ、くじけそうになる心に抵抗して掲げる「松明」です。
そして夜が明けてクリスマスの朝に差し込む「一条の光」。
その日差しもまた、夏の朝のような力強さがないにもかかわらず、何よりも人々の心を励まし温める力を持つのです。
かくいう私自身、長く混沌とした精神状態に「一条の光」が差し込み、「やれやれ、人心地付いたかな」と、大きく息を吐き出し脱力しています。(笑)
四季の移ろいを愛でるあまり、私自身の心の有り様も季節にシンクロしてしまうようです。(笑)
その理由はというと、クリスマスらしい華やかさに欠ける「ぐだぐだ」の長く暗いお話なんですが(笑)、もしかしたら私のように「ぐだぐだ」として過ごされている方の心に、「一条の光」となるかもしれないと信じ、書き進めたいと思います。
心広く、お付き合いください。合掌。
12月15日、私はブログに今の私が抱えている悶々とした気持ちを長々と告白しました。
慣性の法則の「呪い」を感じるほど長く、会社に27年間も勤務した私が「体力の限界」を感じ、恵まれた職場を去るべきか否かの判断を迷いに迷った結果、退場することを選択した理由を書きました。
私という人間は、心が乱れた時には「無料のセルフメンテナンス」として文章を書く習性があるのです。
内向きな心でブログを書いてアップし、内向きな心のまま「満足」していました。
文章にすることで、自分の心の奥底でわだかまっている感情を整理出来たことが「収穫」でした。
言って見れば究極の「独り言」であり「自己満足」です。
自分に親しい人たちに、働くことを嫌がる「怠け者」と思われたくない自己防衛のための「長い言い訳」でした。(笑)
タイトルは『天に口無し人を以て言わしむ(nya.412)』。
何度も「神問い」したけれど、明確なNOというメッセージは届かなかったので、自分が選んだ道を進もうと思うという結論で結びました。
このブログにいろいろな方がコメントをくださったのです。
慰めや共感の暖かい言葉と心を届けていただいて、驚きとともに嬉しさがこみ上げました。
正しいです
側にいたら抱きしめてあげたいです。「もう無理しなくていいよ・・・」と。
これまでの悶々とした日々、どれだけ心が重かったか、想像もつかない程です。
ご自分の体と心に無理がない生き方が一番だと思います。
体力、きっと戻ります!
ゆったりとした時間が、過ごせてますように。
私自身が心の中で何度もつぶやいて、励ましてきた言葉そのものを贈っていただきました。
『なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる』 西行
そしてこれこそが、タイトル『天に口無し人を以て言わしむ』の通り、天が人の口を通じて私に贈ってくださった「答え」なのだと思いました。
とりわけ「ゆうこさん」からいただいた言葉に、ハッとしました。
それは先行きの不安が拭えないでいる私に向けて、言葉をいただいたものです。
理屈ではなく、思いきりアホのようにバーンと
信じて委ねてしまうのです、神様に。
これは少し勇気がいるかもしれませんが
自分の手柄とか計画とか思惑、損得感情、心配、世間体などの
人間的常識をどこまで捨てられるか…
つまり完全に栄光を神に帰すということですね
そしてふるゆらさんが安らぎ、重い荷を降ろして
ひと息ついた時、少しずつ目の前が展開して
神様のやり方でうまいことなっていくんだと
思います。
これを読んだ時、卒然と分かりました。
私は「先行きが不安」だから不安なのではなく、これまで散々お世話になり、導かれ、救われ、助けていただいている「神さまを信じる心を見失っていた」ことで、不安に思う気持ちを手離せないでいるんだと、気付いたのです。
目から鱗でした。
後期高齢者の両親、くも膜下出血で高次脳機能障害で左半身不随の兄、【乳癌ステージ4】の私という究極のチキンゲームを生きている以上、「不安に思うのは仕方がないでしょう」と思っていました。
特に兄に対して、両親と私が「兄より先」にこの世を卒業しても大丈夫なように手配りしなくてはと思い、両親の幾ばくかの蓄えは兄のために使いたいと思い、そのためにも私が経済的に自立していることが大切だと思う心が不安を増幅していました。
お兄さんがどうなるかという事は神様が掌握している事なので
ふるゆらさんにはどうする事も出来ないのだと
思います
ふるゆらさんに出来る事は、
お兄さんは大丈夫。きっとなんとかなる
自分や両親がいなくなっても、不思議な方法で
思いもよらないやり方で神様が助けてくださる
私が仕事を辞めて無収入になっても、
お兄さんが困る事にはならない、と思う事だけ
だと思います
自分が何歳まで生きるのか、どのような終末期になるのか分からない以上、「命綱」とも思う定収を手離し、自分の「身仕舞い」が出来ないことになったらとそのことが不安でならず、ぐるぐると堂々巡りをしていたのです。(嘆息)
でも、ゆうこさんの言葉を読んで、分かってしまったのです。
私が「不安を手離せないのは、不安な状況にいるから」ではなく、これまで導かれてきたように、これからも導かれて生きていけるだろうと「信じる心」を見失っていたに過ぎないのだと。
心の閉ざされていた窓がばぁ~んと開いて光が差し込み、薄暗い部屋の片隅でわだかまっていたものが消えてなくなりました。
先が見えないことに「恐怖」を感じて立ちすくむ時は必ず、自分の中の感謝する心が足りないのだと、以前にも得心したはずのことに気付いて、進歩のない自分にがっかりしました。(笑)
自分が【乳癌ステージ4】だと知った時、PET画像診断の画像が真っ黒に写るほどがんが無数に転移していた身体が、4つの転移を残して画像に写らないほど縮小したのです。
どう考えても「自分の努力」とは無縁に、これほどまでに護られ、救われている私が、「信じる心を見失う」なんて罰が当たります。
その上私の身体はものすごく頑張って、そりゃあ「すごいこと」をやってのけてくれたのですから、私が感謝して「労わらずにどーする」ということですよね。(笑)
また一つ、思い込みの「肩の荷」がおりました。
私自身、頑張っている人に「頑張れ」というような、残酷なことする人間だけにはなるまいと心して生きてきましたが、どうも「自分に厳しくする」昭和根性が抜けなくて、ついつい叱咤激励してしまっていたのです。(嘆息)
そんな自分から脱皮して始めた【乳癌ステージ4】生活だったはずなのに、まだまだ「脱ぎ切れていない皮」がたくさんあることが分かりました。(嘆息)
こんな当たり前のことを「見失う」のですから、凡人が生きるって本当に難しいのでした。(笑)
身体のことは、ゆっくり焦らず付き合っていきます。
毎日職場に通いながら「ここはもう、私の居場所ではない」と感じていたのに、損得勘定に迷いこんでグズグズしていたというのが真相です。(嘆息)
自慢の「野生の勘」のささやきを無視して、頑迷に決断を先送りし続ける私に業を煮やした守護天使さまが、「ええかげんに観念せぇよ、前に進め」と更に体調を悪くすることで「導いて」くださったのだと思います。(笑)
相変わらず、私の守護天使さまは「手荒い」のでした。(嘆息)
私が心底求めている「穏やかな時の流れ」を模索しながら春を待とうと思います。
太陽が昇り、太陽が沈むこと、冬の次には「必ず」春が訪れること、人が生きるための「前提条件となる自然の理」があって初めて、人は生きることが可能になると思う時、大いなるものの「決して裏切られることのないやさしい約束」を感じます。
そこには人が生きることを「肯定」する愛があることを信じます。
私の心に「ろうそくの灯」を「一条の光」を贈っていただけたことに感謝します。
最後に、私がいつ聴いても心が上向く底抜けに明るい曲『みんながみんな英雄』(AI、作詞:篠原誠,作曲:TRADITIONAL)を贈ります。
この曲、おそらく誰もが聴いた ことがあると思います。
auのCMで話題となったアレです。
「元歌」は、小学校の頃フォークダンスを踊らされるときの曲、フォークソング「オクラホマミキサー」(笑)。
それをAIさんがゴスペル調 に大胆アレンジしてます。
聴くたびに「まったくその通り!!」と思って笑ってしまいます。
歌詞に注目して聴いてください。
(注:クリスマスにはまったくふさわしくないので、「まったりクリスマス」を過ごされている方は、後日聴いてください。笑)
ではでは、どちら様も「よきクリスマス」をお過ごしになられることをお祈りします。
次は
です。
一条の光が美しいのは回りが真っ暗だから
ですね
裏のないコインはないし
夜のない一日もない
地球人として二元性を学ぶ私達の一生だから
しょうがないのですね
むしろ影の部分に殊更に直面しなければ
ならないような私達の人生です
私はこの前、神様(?)の人間に対する愛というものを
少し垣間見て驚愕しました
「愛」というものの代償は慟哭、胸が張り裂けるほどの
悲しみ、耐えようのない痛み、息が出来ないほどの苦しみ、
奈落に突き落とされたような絶望でした
もっとふわふわした優しい甘美なものだと思っていたので
大衝撃を受けました
「愛」の本質とはこのようなものでした
私達が存在する、生きていて、在る、ということは
まず、既にこれらのものと引換えになっていると
思いました
私達はこれらを味わわずにいる事は避けられないはずだと
思いました
病気の苦しみ、痛み…逃れたいと思う、とても耐えられないと
思う、こんなに痛くて辛いなら死んだ方がマシだと思う、
神も仏もあるものか、と思う…
でも痛みを感じる「神経」には神という字が入っているのです
この痛みを掌握していないような神様でしょうか?
病気で苦しむ事は私達が想像する以上に意味深いことなのかも
しれませんね
はい、ゆうこさん、私のような鈍感な人間でも「一条の光」を感じることが出来るのは、周囲が暗いか木の下闇の陰に身を置く時です。(笑)
傷つき、苦悩し、慟哭し、痛みに耐える時、人の心は閉ざされた暗闇にあるように感じ、ふとした瞬間に差し込む「一条の光」がどれほど弱々しいものであっても、励まされ、大いなる愛や幸福を見出します。
「神も仏もあるものか」と天に向かって毒づき、時を経て「やはり救われているじゃないか」と理解し、かつて毒づいた自分の浅はかさを懺悔します。(嘆息)
ゆうこさんは、今現在厳しい闘病生活を送られているのですから、日々を過ごす内にも、心の振れ幅が大きくなってそのこと自体に疲れを覚えられるのではないでしょうか。
私は「のほほん」とぬるま湯の中に生きていますので、ゆうこさんの慟哭の深さを真に理解することは出来ないのかもしれません。
ですから、見当外れなことかもしれないことを申し上げますね。
私は幸せや喜びに「代償」が伴うとは考えず、心の中に暗闇を抱えるまで、それが幸せや喜びであると見出さないまま享受して過ごすのだと思っています。
良く晴れた春の日差しの中に立ち、燦燦と降り注ぐ太陽の温もりを受けている時、「気持ちいいなぁ」と思うだけで、それが愛なのだと気付かないように。
冬の厳しい風の中に立ち尽くし、ふとした瞬間に冷たい風の中に「春の兆し」を感じた時、寒さに凍えながら希望を感じるように。
持っているものを奪われ、その後与えられることで「気付く」ことしか出来ないのではないかと思うのです。
奪われることなしに愛に気付くようになるには、あと何度生まれ変わらなくてはならないのか、その果てしなさに茫然とします。
生きるって、難しくて、面倒くさくて、そして面白くて、愛おしいです。
いつもと変わらない、クリスマス?て?日常生活でしたが、うんうん。納得の歌詞。(^-^)/明日も元気出して、後少しの年末まで、ボチボチ働きます。(^-^)/年末も、31、1のみ休み、2#3は、働きます。無理せずにね。体動かしてた、方がいいですから、私は体重増加ですしね。ふるゆらさんは、長いお休みに入るようですがのんびり、ゆっくり穏やかに過ごしてくださいね。病気と仲良くしながらボチボチです。
はい、ありがとうございます。
グリコさんも、よい年越しをお過ごしください。
向かい風でもつむじ風でも寝転んでしまえばそよ風♪です。(笑)
ふるゆらさん、風太くん、メリークリスマス! 子供のころから、1年で一番大好きな時です。小さいガラスのツリーを飾って、24日はクリスマス料理を作って、ジョージアンチャントを聴いて、クルミ割り人形のDVDをみて、気分を盛り上げました。だって25日の今日は、恐怖の抗がん剤通院なんですもの・・・グスッ。神様からの「一条の光」。ふるゆらさんのように、確固たる存在としての神様や守護天使さまを私はまだ知ることは出来ないでいます。ここ15年間、私の家族や私は、次々とけがや病気や死に、「これだもかっ!」と言うほど見舞われました(うちだけの事ではないことは、わかっていますが)。つらかった…精神的につらいです。でも、ぼろぼろになったけど、乗り越えられていて、今、残された家族で、時を紡いでいられるのは、見えない何かの力に支えれているからなのでしょう。ふゆるらさんのブログに出会えたのも、そうなのでしょうね。幸せな時が、ふるゆらさん、風太くん、ご家族や、皆さまのところにも、届きますように♡
メリークリスマス☆絵里さん☆
ロマンティックなクリスマスイブ☆の翌日は、厳しい通院お疲れさまでした。
年末年始を挟んでの治療なんですね。(嘆息)
前回がキツかった分、今回もブルーですね。
それに負傷された手は回復されたのでしょうか。
またしばらく「インディゴブルーの金魚ちゃん」と対話する日々でしょうか。
15年間様々なことを経験され、悲しみや喪失感や絶望に向き合われて来られたんですね。
15年、長い長い歳月です。
絵里さんの経験とは何もかも違うと思いますが、私もかつて長い時間闘った時期があります。
頑張って生きていく「やる気」も、苦悩を耐える「根性」も、無くしたわけではないけれど、傷つき続ける日々に終わりがないことに疲れ果てて、「5分、5分でいいから、ここではないどこかで休憩したい。5分休憩できたら、また頑張れると思うから」と、何度も空を見上げました。
その時私が「野生の勘」で思ったのは、「自分を嫌いにならないようにしよう」ということです。
自分の努力では動かしようのない「悲しみ」が続く時、せめて、自分だけは自分のことを好きでいよう、この上自分が嫌いになってしまったら、たぶん「私は終わる」と思いました。
作り笑いでもいい、笑えなくなったら「心が壊れる」と思いました。
「完璧な自分」を求めて自分に絶望するくらいなら、「満足のいく自分」でいいじゃないか。
「満足のいく自分」も難しいなら、「納得のいく自分」でOK。(笑)
こうして自分に求めるラインをどんどん引き下げて、今の私が出来上がっています。(笑)
未熟さも欠落も含めて今の自分が出来ることを誠実にしたのなら、その結果の失敗はよしとしよう、と思うのです。
そして小さな幸せを力づくで「発見」します。
一日に最低1個は、「ありがたいなぁ」と思うことを捻り出すのです。
私の場合、「脳が天気」だと助かるなぁ、と毎日思って生きています。(笑)
太陽が燦燦と輝いている時、「一条の光」など溶けて消えてしまいます。
暗闇の中に差し込む「一条の光」に神さまのメッセージを感じます。
今日は、クリスマス☆
絵里さんの心の「奥の方」に消えないろうそくの灯が宿りますよーに☆
ありがとうございます。ふるゆらさんも葛藤で苦しみながらも、道をつくり、進んでこられたんですよね、今も。『「1日1個のありがたいな」と思うことを捻り出す』という文をみて、『ポリアンナ』を思い出しました。私の次回の通院は1月中旬でエコーとPETです。1回の抗がん剤の点滴は1日でやっちゃうんですよ。点滴のせいで、半年近く、手足の軽いしびれがあるので、今回は量を減らしてくれました。お定まりの後遺症は律儀にでてくるのですが、回数を重ねるうちに、私も、薬や睡眠で対処する知恵がつきました。腕の腱もかなり良くなりました。心配してくださって、ありがとう! ふるゆらさん、足や体調はどうですか。寒さも例年以上にきついですから、お体に気をつけて、あたたかい毎日をお過ごしくださいね。
そーなんですか、抗がん剤治療は1回だけなんですね。
でも後遺症が長く続くのなら、年末年始も大変ですね。
「やり過ごす知恵と工夫」これって、生きる知恵の中で本当に大切です。
腕の方も快方に向かわれているようで、安心しました。
絵里さんも私も、しばらくは冬らしく「巣ごもり」ですね。
冬眠仲間同士、励まし合って春を迎えましょう♪
追記です : 私の抗がん剤治療は,確か7月下旬から始まって3週毎に、「EC療法4回と、ドセタキセル4回」です。通院1日で1回ごとの点滴を受けます。副作用は毎回、判を押したようにでます。私と似たような時期に、肺がん3になった似たような年代の方の抗がん剤治療は計4回で、1回目は10日ぐらい入院され、4日にわけて点滴されたようです。2回目から最終4回目は通院で、各回目ごとの点滴を連続3日間の通院で分けてされていました。12月26日に今後の治療を先生と話し合うと言ってらしたかな。
むむむ、いろんなパターンがあるということですね。
ともあれ、なにとぞなにとぞ、絵里さんの副作用が早くよくなりますようにと、お祈りします。
年末になって「いろんなこと」があった我が家ですが、先日兄が無事帰省し、「ギリギリ家族」が一人も欠けることなく我が家で年の瀬を迎えています。
いつも通りのシルバーで盛り上がりに欠ける年越しですが、この平凡な日常こそ奇跡。
絵里さんもご家族と小鳥ちゃんたちと、穏やかな年越しをお過ごしください。