ふるゆらの好きな本たち『仏果を得ず』三浦しおん著 (nya.1041)
タイトル『仏果を得ず』が心に刺さり続けています。 (2019年9月6日)
この小説は人間浄瑠璃の世界を描いた物語で、著者が三浦しおんさんでなければ、いくら物好きな私でも、決して触手を伸ばすことはなかったでしょう。
そして結論から先に言うと、さすが三浦しおんさん、「人間浄瑠璃のお話なのに面白い」のでした。(笑)
以前のブログでも三浦しおんさんの著書『風が強く吹いている』(箱根駅伝を描いた作品)を紹介しましたが、文体が読みやすく、ストーリーテリングが巧みなので安心して読めます。
三浦しおんさんが特に大好きという訳ではないのですが、まず『風が強く吹いている』を読み、とても面白かったので他の著書も読んでみるかなと思い、本屋さんで背表紙を眺め「これっしょ♪」と選んだのが本作品です。
初対面の人と出会い、数分もかからず「ああ、この人とは波長が合うな」と分かる時があるように、本のタイトルも同じようなインスピレーションを感じる時があります。
『仏果を得ず』という「・・・なんじゃそら?」というタイトルを選んだら、多くの人に敬遠されるなということくらい予想が付くでしょう。(笑)
しかも『仏果を得ず』というタイトルが、「仏果を得られず」でもなく「仏果を求めて」でもない所が気に入りました。
だいたい「仏果」って何?、と突っ込まずにはいられないのですが、まぁそこは、漢字は表意文字であることから、「仏さまの世界の果物かな」くらいは分かる訳です。
「仏果」を調べて見ると、「仏果」とは、
仏語。仏道修行の結果として得られる、成仏 (じょうぶつ) という結果。成仏の証果 (しょうか) 。https://dictionary.goo.ne.jp/jn/193388/meaning/m0u/
であって、果物とは関係なかった訳ですが(笑)、普通は「仏果を得る」というように肯定的に使われる言葉です。
『仏果を得ず』とは、「自分が悟りの境地なんか得られることはない」し、「もし万が一悟りの境地に手が届くとしても、得ようとは思わない」と、やせ我慢と空元気でつぶやいているようで、私のようなへその曲がった人間には妙に刺さるのです。(笑)
もちろん、もちろん、本当に成仏して悟りの境地を得られる「本物」の方は少数ながらおられるのでしょうし、俗人であり凡人であっても、究極的にはそのような高みを目指すべきなのは承知しています。
でも、胸を張って「俗人であり凡人」と言い切れる私が住むこの世界で、未だかつて、そのような方にお目にかかったことはまずなく、そのように称してそのように振舞っている人物は、例外なくいかがわしいのです。
長年、人助けをしたり精進し続けている自分は良い人だから、そんな自分が思うことは「正しい」こと前提で話を進めてくる人。
自分を良い人だと思いたいから常に「正しい」ことを選択し続け、それが出来ない人を一段下に見下しつつ、口先だけ「分かる分かる」と広い心の持ち主アピールする人。
さらに、へその曲がり方が「本格派」の私は、修行の果てに悟りを得る宗教者さえ疑っているのです。(笑)
仏教、お寺という俗事から切り離された世界で得た「悟り」は、煩悩に満ち満ちている俗世にあっても保たれるものなのか、それで揺らぐような「悟り」を「悟り」というのはズルいのではないかと思っています。
それくらいなら「欠点も間違いも弱さも人並み以上に抱えた「凡人」ですが、何か?」と、腹をくくって日々頭を抱えながら生きている人間の方が、いっそ清々しいと思っていますし、そういう人間の方が、同じような凡人に寛容になれると思うのです。
さてさて、いつものことながら前置きが長くなりました。
『仏果を得ず』という作品は、
高校の修学旅行で人形浄瑠璃・文楽を観劇した健は、義太夫を語る大夫のエネルギーに圧倒されその虜になる。以来、義太夫を極めるため、傍からはバカに見えるほどの情熱を傾ける中、ある女性に恋をする。芸か恋か。悩む健は、人を愛することで義太夫の肝をつかんでいく―。若手大夫の成長を描く青春小説の傑作。
と紹介されています。
タイトルの『仏果を得ず』は、作中の『仮名手本忠臣蔵』の六段目『早野勘平(はやのかんぺい)腹切りの段』の中で、臨終の早野勘平のセリフから採ったものです。
この早野勘平という人は、悪人ではないものの善人でもなく、しかもやることなすこと裏目に出て、遂には誤解から切腹してしまう、とっても「間の悪い人」です。
ちょっと長いのですが、早野勘平がどれだけ「凡人なのか」を分かっていただくために、『早野勘平(はやのかんぺい)腹切りの段』のあらすじをご説明します。
『忠臣蔵』のお話自体は、日本人なら知らない人はないと思いますので割愛します。
主君に一大事が起きた時、早野勘平は隠れて恋人に会っていたために居合わせなかったことで、武士にあるまじき不忠者として蔑まれ、仇討に参加させてもらえなくなります。
早野勘平は恋人の実家に身を寄せて猟師をしながら「何としても名誉を回復し」仇討に参加しようとして、そのためのお金を工面しようとします。
落ちぶれた早野勘平に罪悪感を持っている恋人は、早野勘平に黙って吉原に身売りします。
吉原で得たお金を懐に入れ、家に持ち帰ろうとしていた恋人の父親を、早野勘平は猪と間違えて撃ち殺し、自分のためのお金と知らずに、そのお金をネコババして仇討に加わろうとします。
早野勘平の工面したお金を受け取ろうと仲間の武士が訪ねてきた時、恋人の父親の死体が発見されて家に運ばれ、その時早野勘平が挙動不審だったためネコババがバレて切腹します。
まさに切腹の最中、実は早野勘平が撃ち殺したのは別人で、恋人の父親は刀で切り殺されていること、結局早野勘平が撃ち殺した別人が恋人の父親を殺した犯人であることが判明します。
ではでは、早野勘平は、知らなかったこととはいえ恋人の父親の「仇討」を果たしたのであって、切腹する必要はなかったということになるのですが、時すでに遅しです。
早野勘平を不忠者と詰って攻め立てていた武士が、お金を早野勘平に握らせ「これで成仏して仏果を得よ」と言いますが、早野勘平は「仏果などいらない、成仏などせず、敵討ちの供をする」と言って息をひきとりました。
ね?この『仮名手本忠臣蔵』は、1748年に初演されたものですが、早野勘平の「間の悪さ」身につまされます。(笑)
何をやっても裏目裏目に出る時ほど、自分の「凡人ぶり」が悲しく思える時はありません。
それを取り返そうとしてさらにドツボなんて、、、あるあるですよね。(嘆息)
『仏果を得ず』の主人公若手大夫の健(たける)は、義太夫を極めるために早野勘平のダメダメな心情に寄り添おうと悪戦苦闘し、最後の最後「成仏なんかするもんか」という早野勘平と共鳴するのです。
若手大夫の健(たける)は、早野勘平の臨終の際の『ヤア仏果とは穢らはし。死なぬ死なぬ。魂魄この土に止まって、敵討ちの御供する!』というセリフを言いながら、
金色に輝く仏果などいるものか。成仏なんか絶対にしない。生きて生きて生きて生き抜く。俺が求めるものはあの世にはない。俺の欲するものを仏が与えてくれるはずがない。
と内心で叫びます。
そして、
忠臣蔵と銘打ちながら、この物語の主人公は忠臣ならざる早野勘平だ。忠臣ならざるすべての人々が、この劇の主人公だ。
と確信するのです。
この世は「早野勘平」で満ち満ちていて、私もまた『仏果を得ず』でいこうと思うのです。
忠義や正しさを振りかざすことだけは厳に慎み、正々堂々凡人として、この世で煩悩と悪戦苦闘することを良しとして、楽しもうと思うのです。
この作品を読んで以降、何かの壁に頭をぶつけるたびに、バカボンのパパが「それでいいのだ」と言うのと同じテンションで『仏果を得ず』という言葉を思い浮かべて、ふふふと笑うのです。
『仏果を得ず』、、、それしかできない自分を嘆きながらも「それでいい」と肯定する私の呪文です。
(おしまい)
次は
です。
へ~~~え……面白いですね
人間はそれぞれいろんな考え方や価値観があって
どんな考え方をしようが人間の自由意思が尊重されているんですね
生き方や考え方のセンス…好みの問題なんですね
どれだけ自分と違う考えの人を排除、否定していないか。
多分、そこが重要ですね
宗教なら、他の宗教を信仰している人をどう思うか
哲学なら 他の哲学をもっている人をどう思うか
価値観なら自分とは全く違う価値観をもっている人をどう思うか
少しでも他を排他 非難 否定 糾弾するならその時点でもう
それはまがい物かもしれませんね
なぜなら全きものなら一切否定せずに全てを寛容に受け入れる
ものであるはずだから。
愛の心に裏打ちされたものならば好奇心をもって他のイデアを
尊重せずにはいられないものだから。
とするならば仏果を果たすものか、という早野さんの心もまた
それでよしとなりますね
人間の自由意思というものが何よりも筆頭に尊重されている
というのは人間は神を超えはしないけれど神と同等くらいに
尊い存在だ、とする神様の人間に対する愛じゃないかと
思うんです
中島みゆきさんの『ファイト!』です。
ファイト!
闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろうファイト!
冷たい水の中をふるえながらのぼってゆけ
悪戦苦闘する不器用な人間、自分を含めたそのような人への賛歌。
「凡人」大いに結構じゃないか、少なくとも「悟っている」と自分を偽っている奴らより数段マシ、と思うのです。
もちろん、お釈迦様が仰るように「縁なき衆生は度し難し」としか言えない人もまた確実にいるのですが。(笑)