ふふふ♪風太と秋散歩♪ (nya.1104)
風太と散歩すれば、時の流れが「広く」なります。 (2019年11月8日)
すっかり秋が深まりました、、、と思っていたら、今日は何と「立冬」です。
自室から見える田んぼも、太陽の光を含んで黄金色に輝いていた稲穂が全て刈り取られてしまいました。
田舎に住んでいれば、例年通りの当たり前ではあるのですが、「穂明かり」の黄色く明るい風景に馴染んだ後は、「ああ、消えてしまった」と、シャボン玉がはじけた時のような寂しさを覚えます。
夏、青い空と拮抗して、どこまでもどこまでも緑でした。
秋、太陽の光の化身が大地に降り立ったかのように黄色に覆いつくされました。
そして今、冬支度を終えた田んぼは、麦が芽吹く3月まで半年ほど色彩を失い、静かに深く眠り力を蓄えます。
一足早く冬支度を終えた田んぼから、残りの秋の主演を引き継ぐのは「里の秋」です。
これも毎年のことなのですが、色彩的に他を圧倒するボリュームだった田んぼが、大人しい色合いのベージュの稲わらのお布団を被って眠りにつくと、途端にそれまで目立たなかった草花や木々の、色とりどりの「秋色」を身に纏っている姿が目に飛び込んできます。
「あらあら♪あらあらあらあらあら♪こんなにきれい♪」と、ついさっきまでの、後ろ髪を引かれる寂しさも忘れて心が躍ります。
そうなると貧乏性の私は、うかうかぼやぼやと過ごしている間に、きれいな秋をたくさん見逃したのではないかと、落ち着かない気持ちになります。
「こりゃいかん」私はおもむろに、朝の巡回業務を済ませて縁側で日向ぼっこに勤しんでいる風太を無理やり起こし、嫌がる風太を抱きかかえて散歩用の長靴を履いて言います。
「行くよ!!風太!!」
自然好きの人間が、真正の田舎に住むと誠に便利です。(笑)
思い付いたら長靴を履くだけで、数分後には自分が望む風景の中にいます。
アウトドア派の猫を相方に持つと、誠に便利です。
例え家の中で熟睡していようとも、一旦外に出てしまえば、叩き起こされた恨みも忘れて嬉々として歩き始めます。(笑)
風太が歩くのに合わせて散歩すると、自分一人で散歩する時と異なった時間の流れを感じます。
一言で言うなら、「広い」のです。
自分の視線と風太の視線の2種類で風景を見るからでしょうか。
自分が歩けば膝にも届かない草原であっても、風太にとってみれば自分の目線を遮る草原に分け入ることになって「冒険」です。
人が決して感じることのない音に耳を澄ませる風太を見れば、無意識に私も同じように耳を澄まします。
風太と散歩をすると、いつもよりずっと自然に同化できるようで、人間軸の時間の流れではない所に身を置いているように感じ、心が広々とするのです。
そしてつくづく、「いい相方に出会えて良かったなぁ」と思うのです。
リードを付けていない猫の風太が、私と散歩するのは楽しいからだと思うと、私の心は喜びに包まれます。
私の前を歩くのが好きな風太について歩いていては、撮る写真が全て風太のお尻ばっかりになってしまうので、私と風太は抜きつ抜かれつ、笑いながら互いを出し抜きます。
すぐに寄り道をしてばかりの風太は、私が置いてけぼりにすると、ニャオニャオと文句を言いながら駆け寄ってきて、私の長靴に何度もスリスリしてマーキングして休憩。
いつの間にか散歩しても汗をかかずに済むようになった秋は、風太の生まれ月の11月。
風太も私も、大満足の「秋散歩」です。
(おしまい)
次は
です。
こんにちは。
いいですねぇ、ほんっとにいいですね。
風太殿とのお散歩の光景が目に浮かぶようでほっこりします。
豊かな自然が季節の移ろいをしっかり見せてくれるのですね。
素敵なお写真にお裾分けをいただいているようで嬉しいです。
それにしても立冬ですか。
ホットフラッシュのきつかった季節から、膝下が氷漬けのように冷えて痛みさえ感じる季節へと。
まあ、副作用のこの程度の辛さは、贅沢な悩みとも言える病だとは自覚していますが。
壊れかかった工場の壁などが飛散したり、屋根が落ちたりしないようにと養生に追われ、
この夏以降は台風や大雨などにも翻弄されました。
そんな手のかかったオンボロ工場も、年内解体の目処がつき、一抹の寂しさを感じる今日この頃です。
金太郎さん、工場の年内解体の目処がたったのですね♪
長かったですねぇ、健康体の人でも骨の折れることでしょうに、、、ほんとうにお疲れさまでした。
よく頑張られました。
ご自身を「よしよし」してあげてください。
私は、ホットフラッシュは金太郎さんとお揃いですが、冬でも食事をすると汗がしたたり、最終的にはタンクトップになるくらいですから、末端冷え性とは無縁なんです。
膝下が氷漬けって、、、。(涙)
これからは、少し時間の余裕が出来て、「足浴」とかが出来るといいですね。
面倒臭さが先に立つ「足浴」ですが、我が家の老母にさせているやり方なら、、、と思うのですが。
まず100均(ダイソー)に行き、片足が入るサイズの5リットルタッパーを2個、そのタッパーがすっぽり入る保冷バッグを2個、タッパーがピッタリ入る持ち手付きのカゴを2個買います。
保冷バッグにタッパーを入れて、高さをタッパーに合わせてハサミで切り、持ち手付きのカゴにセットします。
適温のお湯をタッパーに入れて、お湯が覚めた時ようにさし湯を計量カップ(500cc)、終了後の足ふきタオルを準備します。
おススメの場所は、テレビが見える食卓の椅子です。
これなら、テレビを見ているだけですぐに時間が経ちますし、お湯を準備するのも、捨てるのも流しが近くにあるから苦になりません。
ミソは、片足ずつ4リットル程度の水の量なら老母でも扱えますし、「お道具」のカゴを2個重ねておくだけで場所塞ぎにもならないことです。
母は、冷えもさることながら、寝つきが良くなったと驚いています。
もしよかったら、お試しください。
ふるゆらさん はじめまして。
今日の写真も素敵ですね。私も犬の散歩で同じことを感じます。犬ですが老人よりゆっくり歩いて散歩します。
今日やっと、今年の10月8日の記事まで読み進めてきたのですがどうしても聞いていただきたい話があって飛び越えてきてしまいました。
私も小中高と変人部類に自ら身を置き、お墓参りをすると落ち着く、仏像に萌えるタイプです^^
丑年、うお座、超楽天家、犬派の46歳。 カナダで治療中です。
今年の7月に乳癌ステージ4に近いステージ3(肋骨と胸の中央の骨?がグレーだそうで)と診断され、ふるゆらさんの素敵な世界に導かれました^^
30台頃に自分が神様やご先祖様に間違いなく護られていると自覚するようになりました。こういう話ができるのは唯一昨年亡くなった祖母しかおりませんで、今後どうしたらよいのだろうと思っていたところに、ふるゆらさんのサイトに出会ったのです。ありがたやー。
聞いて欲しい話とは、今日起こった喜ばしい出来事なんですが。
8月から抗がん剤治療をしていて先週パキスタセルを12回終え、次のAC治療に入る前に体力が落ちているのでお休みが欲しかったんです。が、昨日の定期診察の際医者に「来週は連休があり混むので明日してもらいます」って言われたんです。
私は十数年の間胃腸の調子が悪く、日本でもカナダでも検査しても原因は分からず、癌の告知を受けた時にはすでに体重が38Kgしかなかったんです。身長が164あるので、もうガンジーのよう骨と皮だけです。その状態で抗がん剤治療が始まり免疫力は下がる一方。なのに病院都合で続行という医者。
「薬の量は体重で決まります」(私:そんなことは分かってます)「胃腸が悪いと言われても私の専門ではありません」(私:そんなことは分かってます)「あなたの診療時間が迫っていますので」(私:唖然)と触診して終了。ふるゆらさんの変人担当医といい勝負です笑
で、その後帰宅後に嬉しいことが起こったんです(ガッツポーズ!)なんと帯状疱疹発症!(万歳)
4、5日前から太ももがピリピリして、抗がん剤の副作用で神経痛があるのでそれだと思っていたのと、数日前に太ももを虫に刺されたと思っていたのが、ピカッと10年前にやった帯状疱疹の記憶が蘇ったのです。笑いが止まらない。。ふふふふっ、あははは、ガハハハッ。勝負あり。
で、今日の治療はめでたく延期となりました。合掌
またまた天に助けていただきました。いつも見ていてくださいます。
私は癌告知されたときは長くはないなとも思いましたが、同時に簡単に(時間的にも内容的にも)死なせてもらえないだろうなとも感じました。癌になった意味を考える時間を与えられたような気がします。
これからも素敵な写真、そしてお話を楽しみにしております。
ご自愛ください。
弥生の空さん、はじめまして&コメントありがとうございます。
「風太&田舎ワールド」にようこそ♪
弥生の空さんて、素敵なお名前ですねぇ。
超楽天家なのも、変人主治医と出会ってしまったのも「お揃い」です。(笑)
カナダで闘病中とのことですが、「医者は変人」というのは古今東西、万国共通なのですね。
抗がん剤治療の延期理由が「帯状疱疹」で、【勝った】と快哉を叫べる男らしい弥生の空さん、惚れます。(笑)
そう思える弥生の空さんだからこそ、「護り甲斐」があるとご先祖さまも思われていると思いますよ。
『癌になった意味を考える時間を与えられた』とは即ち、自分を幸せにする方法を模索するということではないかと思います。
がんという病を得ることは幸運とは言えませんが、それでも、人が生きるという点においては、そこに身を置かなくては見えないものに気付かされます。
だからやっぱり、弥生の空さんも私も、心を魂を護られて、生きる時間を赦されているのです。
生きる時間の長短は「神さまの領域」、私たちは地球滞在型リゾートの旅人同士、大いにこの星の美しさを楽しみましょう♪
『癌になった意味を考える時間を与えられた』とは即ち、自分を幸せにする方法を模索するということではないかと思います。
その通り。ふるゆらさんには分かっていただけると思ってましたぁ 嬉しいな。
自分より家族、相手、仕事を優先にしてしまってましたので自分にかなり可哀そうなことをしてきたよなぁと。でも抗がん剤治療をしているのは実は家族(夫と息子)のためなんです。涙
本当は癌治療は免疫力を付ける以外したくないんです。「なるようになる」天に委ねたいのです。
こんな私を見捨てずずっと優しく見守り、導いてくださるお力を信じ、感じて過ごす毎日です。そういう意味では、すでに天に委ねているんですけどね。
弥生の空さん、いろんな想いを混ぜ合わせて、取捨選択して、自分が幸せと思えるポイントの「塩梅」が難しいですよね。
封印している想いを開放することと、エゴの差はどこにあるのだろうと、いつも悩みます。
「正解」のないものに「正解」を求めても詮無いことだと分かっていても、「正解」を探し続ける心を持て余して傷ついたりします。
普通に生きてるだけなのに、なんでこんなに難しいかなと思うこともありますが、空を見上げて深呼吸して、心地よい風に吹かれれば笑みが浮かびます。
「やっぱ、生きるって面白いじゃないか」と思う瞬間が時折り訪れて、また歩き始めてしまいます。
愛しい風太君との 思い切り秋散歩、気持ちいいでしょうね
しかし、ねこくんと、散歩って出来るものなんですね。
昔、小型犬を飼っている時には、私がいつもより、沢山歩きたいな、と進むと
いつも曲がる道を覚えていて、引っ張って 行かせない(笑)
ワンちゃんで、かしこいコロちゃんだったなぁ~。
16歳、人間になぞえると80台で亡くなりました
ふるゆらさん!
ふるゆらさんの文章読んでると、童話!!書いてみたらいいのにと思いますよ!!!
ははは、散歩途中で風太がふいにいなくなって戻ってこない時、「ぐぬぬぬ、犬だったらこんなに薄情じゃないのに~~」という思いが一瞬頭を過ぎりますよ。(笑)
でも、私には「へそ曲がり風太」がピッタリです。
変人の私とへそ曲がりな猫、まさに「割れ鍋に綴じ蓋」式に相性抜群です☆
ああなんと素晴らしいブログなんでしょうか
猫ちゃんと人間の関係は神聖ですね
これが相手が人間になると義務 責任 妥協などが
生じてこうはいきません
風太ちゃんとふるゆらさんはセットですね
風太ちゃんのいないふるゆらさんなんて考えられませんがあの時ふるゆらさんがご病気の告知を
受けられなければ風太ちゃんは今ごろどこか
よそ様に飼われていたことでしょう
こんなに大自然の中で自由に縦横無尽に暮らす
ことは出来なかったかもしれないことを考えれば
風太ちゃんもここに貰われて本当によかったと
幸せに感じているでしょうね
そう考えるとご病気になられたことも運命だった
のかとさえ思ってしまいますね
或いは大事な生命線ともいえるお仕事を犠牲に
せざるを得なかったからそれと同等の、或いは
それを上回るものが現われたのでしょうか
モーリス・ホワイトのIneed you を知ってますか
?
‘cos living alone isn’t really living at all.
一人では生きているとは言えない
風太ちゃんが相乗効果となって更にいろんな景色を見せてくれるんですね
ちょっとヤキモチです ╰(*´︶`*)╯
はい、ほんとうに風太と出会えて幸運でした。
散歩の時も幸せなんですが、寒くなって、私の顔に腰のあたりを押しつけて寝る風太の温かさを感じて眠りにつく時、いつも「風太、私の相方になってくれてありがとう」と幸せを噛みしめます。
病を得て、風太を得ました。
No Rain、 No Rainbow
ですね。
今日はピコーンと来たことがありましたよ
「リードを付けてない風太が私と散歩するのは
楽しいからだと思うと私の心は喜びに
包まれます
私と風太は抜きつ抜かれつ笑いながらお互いを
出し抜きます」
いつかの未来
ふるゆらさんはいつか人間でいた時のことを
思い出して このことを懐かしく思うだろうなと。
楽しい思いが、幸せな気持ちがきっと 人を
先進させるのでしょう
空色勾玉でも最後に○○○と○○は結ばれますね
愛が全てを凌駕して相反するものを越えて
人類が進化した瞬間でした
読んでよかったです
不思議と読後 いつまでもいろいろなシーンが
胸に引っかかって なかなか残り香が消えない
本ですね
フランキンセンスの香りのようです
良いご本を紹介してくださりありがとうございます
⭐️✨
ゆうこさん、『空色勾玉』を読んでくださったのですね。
ありがとうございます。
「ファンタジー」は「絵空事」かもしれませんが、異世界に心を遊ばせることで不思議と心の地平が広がります。
神話って、そういう効用があるから人の心の奥深くに刻まれ、果てしない時を語り継がれてきたのだろうと思います。
その通りです!
実はファンタジーと現実の境い目は
ありません
私は空色勾玉には八百万の神々様達の
画策を感じましたよ
古代の日本の成り立ちを風化させない為に。
若い人達に伝承していってもらうために
興味を持ってもらうために
こんな形を取ったのではないでしょうか。
作者の方が
「読みたいと思う本が無い。そうか、
それなら自分で書けばいいのかと思った」
と何かに書いてあったのを見て
やっぱりな〜と思いました
でなければ大昔のことをあれほどまでに見てきたようには
書けないでしょうから。
ふるゆらさんが風太ちゃんと笑いながら
抜きつ抜かれつして散歩してるのも
まるでファンタジーですが現実です
事実は小説よりも奇なりなら
ファンタジーは現実よりも より現実じみて
いるのかもしれません
言葉には言霊が宿り、物語は呪術的な人を誘う力があると思います。
ですから、上手に物語を紡ぐことができる人は「語り部」として、一種シャーマンのような地位を与えられたのでしょう。
今年は令和元年で『万葉集』が注目を浴びましたが、『万葉集』を思う時、私はいつも不思議の念が湧くのです。
日本では文字を持たず、漢字が4世紀後半頃仏教の伝来とともに伝わったとされ、『万葉集』の編纂は、大伴家持が亡くなる以前の延暦初年/782年頃に進められたのではないかとされています。
その間300年程度です。
農民である防人の妻に至るまで歌が詠め、それらが『万葉集』に採用されているということは、印刷も通信もない社会で、それぞれの方言を越えてある程度統一された言葉の運用が国内に広く伝播していたからこそです。
文字以前に文字を持たない「大和言葉」がこの国にはあり、漢字の音と意味を組み合わせた万葉仮名に置き換えられたのだと思うと、「文字を持たない文化=未開な社会」という先入観がガラガラと崩れます。
日本では古代に「歌垣」の風習があり、言葉を操って魂を乗せることが日常でした。
日本の古代は奥が深い、とつくづく思います。