ああ、楽し♪パラリンピック観戦つれづれ (nya.1762)
パラリンピアンの奮闘に胸熱(ムネアツ)、幸せな毎日です。 (2021年8月27日)
まったくの自己都合(2014年3月、乳がんステージ4がん告知事件)で「東京オリンピック2020」を目指していた私の夢が実現し、『うわぁぁぁぁぁぁぁ、ほんとに、生きて東京オリンピックみてるよぉぉぉぉぉぉx』と感無量のオリンピック観戦を終え、ウズウズしながら楽しみに待った「東京パラリンピック2020」が始まりました。
種目を問わず、スポーツ観戦が大好物の私ですので、パラリンピックのどの競技を見ても純粋にスポーツとしての面白さに胸熱です。
何より!!自国開催なので、さすがのNHKも放送枠を大きく確保せずにはいられなかったようで、パラリンピックのテレビ放映時間が多いのが大満足です。
毎回、パラリンピックを楽しみにしているのに、少ししか観戦できないのがずぅぅぅぅっと不満だったのです。
さらに、五体満足なアスリート同士の「人類の頂上決戦」を見る醍醐味とは別に、体や知的にどこか障がいを持ち、それを受け入れた上で、自分の手持ちのカードをフルに使って勝負を挑むパラアスリートの方々の姿は、まるで自分が戦っているような気するほど共感を覚えますし、心から尊敬します。
昨日は、男子の車椅子バスケットの試合を見ました。
車椅子でバスケットをしようというのですから、選手たちは最低限、車椅子を「両手で漕げる」機能を持つことが前提です。
でも、その中でも選手の障がいの大小は様々で、
選手は障がいの重いほうから順に1.0点から4.5点まで0.5点刻みで8クラスに分けられ、コート上の5選手の合計点を14.0点以内にしなくてはならない
というルールの下で行われます。
クラスを分けるのは、例えば、コートに転がったルーズボールを拾うという動作であっても、4.5の障がいなら屈んで手を伸ばすことが出来ますが、1.0の障がいならば、腹筋・背筋の機能が無く座位バランスがとれないので、ボールを拾っても車椅子に手をついて腕の力で上体を起こさなくてはならないからです。
パスも、手を伸ばして受けられる人、手を伸ばすことが出来ない人、首を左右に振って振り返ることが出来る人、前しか見られない人、本当に様々なバリエーションの障がいがあります。
オフェンス、ディフェンスも、マッチアップする相手との障がいのギャップが生じるため、1本のパスもそれらを計算して、さらに味方の受けやすいパスの高さが求められるのです。
選手の個性的な障がいを組み合わせて合計14.0点以下になるようチームを組み、作戦を立て、試合の流れに合わせて選手交代をしながら、無数のフォーメーションを駆使してゴールを重ねて勝利を目指すパラリンピアンの方々、、、、。
普通のバスケットの何十倍も複雑なゲームを軽々とこなし、それらを感じさせないほどの瞬時の判断の連続、ほんとうに、どれだけクレバーでクールなんだと感心しきりです。
障がいが軽度な点数の高い選手が得点を稼ぐのは当然ですが、障がいの重い点数の低い選手も得点をします。
フォーメーションによっては早々と無人の敵のゴール下に一人で入り、味方がボールを奪い、ロングパスを正面で受けることで楽々シュート出来るのです。
気の遠くなるような努力と献身を「大前提」として置き去りにし、コート上の選手たちは、こればかりは健常者のアスリートも障がい者のアスリートも寸分違うことのない、アスリート特有の剥き出しの闘志と勝利への渇望を燃やして、ゲームに没入します。
それに、車椅子男子はイケメンぞろい(笑)、ああ、おもしろい。(笑)
そのような「スポーツ観戦」という点で、パラリンピックを楽しんでいるのですが、パラリンピックの楽しみはのもう一つあり、それは試合後のインタビューに受け答えするパラリンピアンの方々の言葉もまた「胸熱」だからです。
どの選手も体に障害を持ち、それを乗り越えた上で己を鍛えることを選び、パラリンピックの場に立っておられる方々ですから、一言一言に深い含蓄があり、心に刺さる言葉を紡がれます。
もちろん勝負事ですから誰しも勝利を望み、それが叶わなかった時の悔しさや失望は、健常者も障がい者も同じはずですが、敗者になった時のパラリンピアンの「自分を称える」笑顔は、どのような不運も、どのような不条理も一旦は「受け入れる」という、人にとってこれほど難しいことはない大きな山を越えた人だけが持つ「本物の笑顔」だと思うのです。
以前のパラリンピックで、知的障がいのクラスの水泳選手がメダルを取った時のインタビューが忘れられません。
知的障がいを持つアスリートは感情のコントロールが難しいとされています。
しばしば注意力が散漫になり、集中して練習を続けることが難しかったり、試合となっても、試合時間に合わせて集中力を高めて持続することが難しかったり、試合の展開を読むのが苦手だったりするそうです。
その選手は20才くらいの青年で、インタビュアーの方も「分かりやすい言葉」に置き換えて、彼にインタビューしていました。
彼にインタビュアーが「最後の追い上げでメダルを獲得しました、頑張りましたね」というと、彼はニコニコしながら「はい、頑張りました」と大きな声で誇らしげに答えたのです。
その瞬間、私の涙腺は壊れました。
彼の純粋な心、苦しい練習、苦しい競技を「楽しい」ことに変えた、彼の周囲の人の献身、感動しました。
健常者、障がい者を問わず、オリンピックやパラリンピックの出場を果たすほど、懸命に自分を鍛えてこの場に立っているのですから、結果の如何を問わず、誰だって彼みたいに胸を張って「はい、頑張りました」と答えればいいのです。
そうしたら観ている私たちも「うんうん、本当によく頑張りました」と、混じりっ気なしの称賛を贈り、ままならない人生を送る自分もまだ「頑張れるんじゃないかな」と思ったりするのですから。
(おしまい)