「金継ぎ」の自分であること (nya.1489)
そうか、私のひび割れた「金魚鉢」は金継ぎだったんだと気付きました。 (2020年11月27日)
先週の金曜日のブログ『悩み事はきれいなものを見ながらする (nya.1482)』で、
それは発想の転換。
重く苦しく痛く切ない想いを「手離したい」と願うことを「手離した」のです。
自分には生涯振り払うことのできない傷があり、そのために随分歪んでバランスが悪いけれど、それを抱えて生きてくんだと腹をくくりました。
という心境の変化を書き、
その際に思ったこととして
割れた陶器を金漆で繋いで器を再生する「金継ぎ」、割れる前よりもさらに美しいとそこに「美」を見出すのは、日本人特有の美意識だそうです。
日本人である私は、自分もまた「金継ぎ」の器であると、ごく自然に思うのです。
「割れる以前」に戻ることは不可能ですし、まるで「割れなかった」かのように復元する必要もありません。
器が割れたことで偶然に生まれた断片の線が、美しい模様となるように。
花屋で売られている完璧に美しい花よりも、ふと足元で見つけた、虫に食われた葉を広げて小さな花を咲かすスミレの花が愛おしいように。
多くの人が見上げて称賛する公園の桜より、山に咲き、誰にも鑑賞されることのない山桜の大木が、見事に満開になり散っていくのを見て涙がこぼれるように。
私もまた「ブサカワ」な魂を抱えて生きていくのみです。(笑)
と、書きました。
、、、で、なぜそのような「発想」に至ったかという説明は、先週のブログでお伝えしたかった「きれいなものを見ながら考え事をすると、陰陰滅滅(いんいんめつめつ)としたことを考えるのを止めることは出来ませんが、比較的短時間で切り上げられますよ」という趣旨に含めるには、長くなりすぎると判断し割愛したのです。
でも、あれから1週間が経過した今、「いや、待てよ、「金継ぎ」という発想に至った経緯をお伝えする方が、悶々としている方に有益なのでは?」という心の声が大きくなり、「そうかな?よく分からないけど、まぁ、お伝えしてみるか」と考えるに至った次第です。(笑)
、、、で、なぜそのような「発想」に至ったかという説明をするとなると、前段として、私のインナーワールドにあるイメージをご理解いただく訳ですが、それがまた案の定、長々しいもので大変心苦しいのです、、、。
が、しばしお付き合いくださいますよう、伏してお願い申し上げます。合掌。
それは、、、私の過去のブログを「全部読んだよ」という仏さまのような広いお心を持った奇特な方でも、あんまり昔過ぎて「忘れてたわ」と思われる方が大多数であるだろうと思われる『金魚鉢を抱えて歩くということ (nya.333)』(2017年9月27日)にまで遡ります。合掌。
それは「金魚のお話」、私自身の完全オリジナルな空想であり、私の中で、いつこの「金魚のお話」が形となって息づいたのかも判然としないのですが、気が付けばこのお話を何度も繰り返している自分がいる、という代物です。
まずは、ご一読ください。
『金魚鉢の話』
その世界では、人はみな金魚鉢を抱えて歩かなくてはなりません。
手足の指が5本ずつある、肘や膝が曲がるのと同じように、金魚鉢を抱えて歩くことが体の一部であり当たり前のことなのです。
物心がついた時には金魚鉢を抱えていたので、そういうもんなんだという感覚です。
金魚鉢の大きさもそれぞれ、形もそれぞれ、水の量もそれぞれ、中に泳いでいる金魚の色もそれぞれ、形もそれぞれ、何匹いるかもそれぞれです。
みんな金魚鉢を抱えて暮らし、金魚鉢を抱えて旅をします。
じっとして動かない時や寝ている時は、ちょっと脇に置いて腕を休めることもありますが、移動する時は必ず自分の金魚鉢を抱えて動かなくてはいけません。
金魚鉢の中の金魚は、人が抱えていないと水が冷たくなって元気がなくなってしまうからです。
誰かに預けることも、助けてもらうことも出来ますが、大切に扱ってもらわないといけないし、水の温度も難しいので、よほどいい人でないと大変なことになります。
それに長い時間人に預けると、腕の力がなくなって金魚鉢が抱えられなくなってしまい、あとあとそれも大変なのです。
普通に歩いている時でも、金魚鉢の水はちゃぷちゃぷ揺れていますが、人間生きていれば、何かを追いかけたり、何かに追われたりして走らなくてはならない時もありますし、夜にお月様のあかりを頼りにして曲がりくねった山道を手探りで歩かなくてはならない時もあります。
そんな時金魚鉢を抱えていると大変です。
中の水がばしゃばしゃ外にこぼれてしまうこともありますし、何かにつまずいて転んでしまうこともあります。
水があんまり少なくなると金魚の元気がなくなります。
転んで金魚鉢にひびが入ってしまったら、急いで直します。
金魚鉢から金魚が飛び出してしまうことだってあるのです。
金魚鉢を抱えて生きるということは、このように本当に面倒臭いことなのです。
慣れていても重いし腕はだるくなるしで普段から大変なのですが、疲れている時や体調が良くない時はほとほと嫌になります。
こんなものなければどれほどいいか、と放り出したくなります。
周りの人たちの金魚鉢を見ると、大抵の人は楽そうに金魚鉢を抱えて歩いていて、中の金魚もスイスイと気持ちよさそうに泳いでいるので、羨ましいかぎりです。
金魚鉢を抱えてうんうん唸ってるのは自分だけなんじゃないかと思い悲しくなる時もあります。
でもよく見ると、金魚鉢が大きすぎて苦労している人や、水が少なくても気にしていない人や、急いでいるのでしょう、金魚鉢のひびを手でふさいだまま走っている人もいます。
世の中にはいろんな人がいて、金魚の代わりに怖い顔の魚を入れていたり、金魚鉢だけで金魚がいなかったり、金魚鉢をなくしてしまった人もいますが、そんな人たちはたいてい楽しそうではありません。
そんな厄介な金魚と金魚鉢ですが、たまにお天気のいい日になだらかな道を歩き、金魚鉢を脇に置き、心地よい風に吹かれて木陰で休んでいると、通りかかった人に金魚や金魚鉢をほめられることがあります。
時には、たくさんの金魚のいる大きな金魚鉢を楽々抱えた人が通りかかって、私の金魚鉢に金魚を分けてくれたりします。
そんな時改めて自分の金魚鉢を眺めると、日の光を受けて金魚が元気に泳いでいて嬉しくなります。
私はうっかりもので、金魚鉢にはたくさんのひびがはいっているので、金魚を褒められるよりも、金魚鉢のひびを「上手に直してるねぇ」と褒められることが多いです。
木陰で休んだあと、普段は愚痴ってばかりいる重い金魚鉢を抱えて立ち上がるのもちっとも嫌じゃありません。
またすぐに重い金魚鉢を持て余して放り出したい気持ちになるのでしょうが、元気に泳ぐ金魚を見ると「それでもいいか」という気持ちになってのんびり歩きはじめるのです。
おしまい。
お気づきいただけましたでしょうか。(笑)
私はうっかりもので、金魚鉢にはたくさんのひびがはいっているので、金魚を褒められるよりも、金魚鉢のひびを「上手に直してるねぇ」と褒められることが多いです。
これです。(笑)
ずっと以前から、私の「金魚鉢」にはたくさんの「修繕跡」のひびがあることは承知していて、他の人の金魚鉢ほど透明でキラキラしていないことは分かっていましたし、それに満足していたのです。
金魚鉢がそんな有様でも、中で泳いでいる金魚は、私のような不器用な持ち主に合わせたのでしょう、傷を負いながらも私の想像をはるかに超えて元気でしなやかで、そのような金魚に出会えた幸運に感謝してもいました。
そしてこの度私は、そのひび割れだらけの金魚鉢がひび割れる以前の金魚鉢よりも愛おしいと思い、よくよく全体として見れば、もしかして「美しい」とすら言えるのではないかと思い、ひび割れの一つ一つが積み重なって今に至る時の経過を誇りに思ったのです。
、、、で結論として、これは、「金継ぎ」の器が美しいのと同じなのではないかという「発想」に結びついたのでした。
(おしまい)