ふるゆらの好きな本たち『炎路を行く者 —守り人作品集—』上橋菜穂子著(nya.1286)
多くの人に「今」この物語を知って欲しいと思うのです。 (2020年5月8日)
『炎路を行く者』は、私の大好きな上橋菜穂子さんの「守り人」シリーズからのスピンオフ作品集で、読んだのは実のところ「つい最近」です。
人と同じように本(物語)にも「ご縁」があり、出会うべき時に出会うようになっていると常々思っているのですが、この本を読み終わった時、そういう意味で「やられた、一本取られたな」と思い、一粒の涙がこぼれました。
読書ジャンキーの私が、大好きな作家さんの最新本を読まずに済ますことは珍しいのですが、時に、自分でも分からない理由で気が進まないことがあります。
そして私は、本に限らずそのような「何となく」には、逆らわないことにしています。
物語の内容も確認しないまま「何となく」手に取らずにおいた本を数年後、これまた「何となく」読んでみるかと思って購入し、それでもさらに半年ほど「積読(つんどく)」して(笑)、ようやく手に取ったのがつい最近、、、。
で、読んでみたら「今」読むことがベストだったと、、、。
誰もが想像も出来ないほど大きく時代がうねり、誰一人その激流に流されずにいられない「今」。
「今」でなければ、この物語の主人公のヒューゴと同じ気持ちで、青空を見上げることは、寄せては返す波の音を聴くことは、できなかったでしょう。
『炎路を行く者 —守り人作品集—』という本は、
『蒼路の旅人』、『天と地の守り人』で暗躍したタルシュ帝国の密偵ヒュウゴ。彼は何故、祖国を滅ぼし家族を奪った王子に仕えることになったのか。謎多きヒュウゴの少年時代を描いた「炎路の旅人」。そして、女用心棒バルサが養父ジグロと過酷な旅を続けながら成長していく少女時代を描いた「十五の我には」。──やがて、チャグム皇子と出会う二人の十代の物語2編を収録した、シリーズ最新刊。 https://www.shinchosha.co.jp/book/130284/
というものです。
『炎路を行く者』の前半のあらすじは、
「炎路の旅人」は、南の大陸にあったヨゴ皇国がタルシュ帝国との戦に負けて、タルシュ帝国の属国となっていく物語でした。
ヨゴ皇国で最高の武人と称えられた「王の盾」の家に長男として生まれたヒュウゴは、王に忠誠を誓う父に憧れ、「王の盾」になることを夢見ます。しかし、ヨゴ皇国は戦に破れ、都にタルシュ兵が侵入してきました。タルシュ兵は、平民や皇族には手を出しませんが、ヨゴ皇帝に忠誠を誓う上流階級の武人たちは、遺恨の芽を残さないため、家族まで皆殺しにされました。
ヒュウゴは、母親と妹と3人で、上流階級の武人たちの家族が隠れていた小屋にいたところを、タルシュ兵に襲われます。タルシュ兵は、都の門を破ると、真っ直ぐに隠れ家を襲撃しました。ヒュウゴは、漁師の娘リュアンに助けられ、一命を取り留めます。https://minicine.jp/d5/0035.html
です。
そして、そこから「彼は何故、祖国を滅ぼし家族を奪った王子に仕えることになったのか。」という物語が展開していくのですが、まずこの前提条件が、「今」でなければ、これほど切実な痛みとして感じられなかったと思うのです。
当たり前と思っていた生活が、手の届かない何かによって根底から覆される恐怖とその理不尽に対する憤りが、「今」の私たちには分かります。
ヒュウゴが一夜にして全てを喪ったのは13才の頃、「今」もまた、世界中にたくさんの様々なものを失った「ヒュウゴ」がいることでしょう。
その後の物語で、ヒュウゴは思春期の少年から青年へ成長すると同時に、偶然に出会ったタルシュの密偵から、自分を取り巻く現実を別の角度から見ることを教えられます。
全てを失い、過去を捨てて生きているつもりでいた自分が、なお、貧しくその日暮らしの生活に追われ、すべてを失う以前の「常識」に囚われたまま、目の前にある事実が見えず、自分を支えていた憤りすら、その方向が間違っていたのではないかと疑うことを知るのです。
混迷の時代、玉石混交の情報が入り乱れる中、複眼で物事を捉え、俯瞰で分析することは、本当に至難の業です。
物語の終わりごろ、ヒュウゴは、祖国を滅ぼした敵であり憎悪の対象でしかなかったタルシュ軍に入ることを決意する前に、雨上がりの草地にしゃがみこみ、青空を見上げて自問します。
(おれは・・・・・)
自分に忠誠を誓えるだろうか。-わが身は、忠誠に耐えうるほどのものだろうか。
中略
おのれの足で立たねば、見えぬ景色がある。
中略
(いつか・・・・・)
みんなを青空のもとへ、風が吹きわたる草地へ連れだせる者にーそういう者に、なれるだろうか。
思わず、ヒュウゴと同じように青空を見上げ、私も心に誓いました。
ヒュウゴほどの大きな志ではなくても、「今」この時代を自分が大切にしたいと思うものを守り抜くためには、清濁併せ飲んでもぶれない、タフで凛とした覚悟が必要なのだと思います。
いつの世も、人の作り上げるものは完璧とは程遠いものですが、何かが大きく壊れたのなら、それまでよりも少し良いものに作り変えるのです。
そうした膨大な積み重ねで「今」があるのですから、大きな時代の転換点に立つ私たちもまた、これまでよりもほんの少し良いものを作る意志を持たなければならないのです。
最後に、「今」に囚われすぎてもいけないという戒めです。
『炎路を行く者』に納められたもう一つの物語、女用心棒バルサが養父ジグロと過酷な旅を続けながら成長していく少女時代を描いた「十五の我には」の中で、15才のバルサが大失敗をして自分を責め抜いてている時、養父ジグロが詩の一節を引用してバルサに聞かせます。
「・・・・・十五の我には 見えざりし、弓のゆがみと 矢のゆがみ、二十の我の この目には、なんなく見える ふしぎさよ・・・・・。」
「歯噛みし、迷い、うちふるえ、暗い夜道を歩きおる、あの日の我に会えるなら、五年の月日のふしぎさを 十五の我に 語りたや・・・・・」
5年後、私たちの前にはどのような風景が広がっているのでしょうか、、、。
(おしまい)