「梅雨と夏至」について思うこと (nya.2063)
“every cloud has a silver lining” 「どの雲にも銀の裏地が付いている」 (2022年6月24日)
今年も自然の「優しい約束」が守られて、梅雨が始まり夏至が訪れました。
当たり前の日常は当たり前ではなく、薄氷の上に築かれた砂上の楼閣のように儚いものなのだと、天災や事故に出会ったり健康を損なった時、何度となく痛感し「当たり前の日常こそが奇跡」なのだと噛みしめた経験がある方は多いと思います。
私もその一人であり、その度に膝に手をついて、ただ時の流れに身を任せ、再び立ち上がるための気力をかき集められるまで「待つ」ことしか出来なかった経験が幾度もあります。
そこで私は思いました。
なぜ、自分は「待つ」ことが出来たのだろうと。
もう一度立ち上がることなど出来ないと、思っているにもかかわらず、なぜ希望を手離すことを拒み、絶望に屈してしまわなかったのだろうと。
私の結論は「必ず四季が巡るから」です。
春の後には夏が来て、夏が過ぎれば秋、やがて冬が訪れる「当たり前」の四季の巡りが「必ずある」と信じられるからこそ、私は「待つ」ことが出来たのだと思います。
これは、この星がそこに生きる他ない人間に恵んでくれる最大の恩恵であり、決して破られることのない「優しい約束」なのです。
言い古されていながらいつも胸に迫る「冬来たりなば春遠からじ」という慣用句も、四季の巡りを何の疑いもなく信じられるからこそ希望の言葉となるのです。
今、逃げ場のない暑さに苦しんでいても、やがて過ごしやすい秋が来ると思い、今、何もかもが枯れ果てて凍り付いてしまいそうな孤独に苛まれていたとしても、春が来て夏が訪れれば、鬱蒼と生い茂る夏草を目にするのだろうと思えることに救われました。
四季が巡り時が滞ることなく流れ続けるということは、永遠に同じ場所で足踏みをしているように思える自分にも必ず変化を促すのだと信じられるからです。
だから私は、四季の巡りを感じる度に「護られているなぁ」としみじみ思い、飽きることなく何度でも触れたくなります。
春夏秋冬が明確にあるこの島国に生まれ、日々の営みの中で、四季の巡りを嫌という程感じられる、自然豊かな田舎に暮らせている幸運に感謝します。
そして今年も、梅雨が始まり夏至が訪れました。
ありがたいなぁ、嬉しいなぁと思うと同時に、幼い頃に「梅雨」や「夏至」に抱いていた印象がすっかり様変わりしている自分の心象風景に驚きます。
幼い頃、「梅雨」と言えば嫌な季節でした。
通学の時、雨の日に蒸れて気持ち悪い合羽や長靴を強要されるのが何より嫌でしたし、曇りの日のプールの授業は、唇が紫になるほど寒かったからです。
幼い頃、「夏至」を意識したことはありません。
6月下旬に思うことは、「まだ夏休みまで1ヶ月もある(嘆息)」です。
しかし今、「梅雨」に思うことは、梅雨の晴れ間の猛烈な暑さに打ちのめされる度に「やれやれ、この暑い季節に梅雨が一月以上あって本当に助かるわぁ」と思います。
もし「梅雨がなかったら」と想像してみてください。
土用の頃の暑さが2ヶ月も続くのです。
そして今、「夏至」に思うことは、やがて訪れる夏の終わりであり、秋冬と巡る四季であり冬至を思います。
これからどれほど酷暑の日々が続こうとも、夏至を境に日の出は遅くなり、日没は早まるのだと思えることが救いです。
ほんとうに暑さに耐えなければならない季節に、日に日に夜が長くなるということが約束されているからこそ、その変化を「待つ」ことが出来ます。
梅雨は、空を雲で覆って強烈な日差しから植物や作物を守り、大地が乾いてしまわないよう蒸発する水分を補うだけの雨を降らして豊かな自然を守ります。
その上、私のような体力に自信のない人間もその恩恵に与かって、何とか夏を生き延びることが出来るのですから、「梅雨」ほど有難いものはありません。
そう思うと、「梅雨と夏至」の組み合わせの妙に「よく出来ているなぁ」と感心する他ありません。
昨年の冬至から半年かけて徐々に昼が長くなり、凍てついていた大地を温め地熱を蓄え、そのピークに達するのが夏至、蓄えられた地熱と夏の苛烈な日差しが相乗効果を発揮して、連日の真夏日となるところを「梅雨」がそっと日傘を差し掛けて暑さを遮り守ってくれるのです。
こんなことを思うのも、私が病を得て人並みの体力が持てないからでしょう。
健康な人なら、老年に差し掛かって初めて思い至ることかもしれません。
私が「病を得たことにも得がある」と思うのはこういう時です。
自分が弱者になって初めて見える景色がそこにはあります。
若く、健康で、体力があり、何事も自分の意志で動けていた時に見ていた風景が表面だとするなら、それらを失った今の私が見ているのは裏面。
そしてその裏面には、表面を見ているだけでは到達できない「優しい約束」に護られた優しい風景が広がっています。
“every cloud has a silver lining”
「どの雲にも銀の裏地が付いている」
この美しいことわざが心に沁みる「梅雨と夏至」です。
(おしまい)
「優しい約束」
とっても素敵な言葉ですね!
元気なときは、毎年の暑さ寒さも当然って思ってましたが
私もガンになり、ちゃんと季節が巡ることや、うっとうしいジトジトやハードな暑さ寒さすら「今年もこのしんどさを経験できるくらい生きてこれたんだなぁ」ってしんみり感じるようになりました。
まさしく「優しい約束」が、体感ではしんどいときがあっても笑、約束に結ばれている幸せを感じているのかなって。
田が鏡になって空を映す景色も季節もとっても美しくて、大好きです。きれいなお写真ですねー!!
小さなころ、朝焼けや夕暮れに、自然の鏡のなかを、飼い犬の散歩をするのがすごく贅沢な時間でした!
すてきなブログとお写真ありがとうございました、コメントさせていただきました!
まりりさん、コメントありがとうございます。
「がんマラソンランナー」の醍醐味は、人生は有限なんだと当たり前のことが本当に腑に落ちた時を境に、目に映る些細な幸せを貴重なものとして味わいつつ生きる
ことに尽きます。
まりりさんも、生きることを堪能されているご様子、何よりのことと嬉しく思いました。
私の「些細な幸せ」には、四季の移ろいを愛でることが大きな割合を占めていて、それは「優しい約束」によって叶えられています。
あの時、空を映していた水を張った田んぼは今、稲が青々と育つにつれて水鏡を覆い尽くそうとしています。
まさに、『何ももたぬという人でも、天地のめぐみをいただいている』です。
お互いに、地球滞在型リゾートを大いに楽しむ旅人同士、これからも頑張り過ぎないように頑張って(笑)、ポテポテ歩んでいきましょう♪
ふるゆらさん、こんにちは。たおです。
なんと穏やかで美しい風景なのでしょう。
私の住んでいる地域は海に近いのですが、住宅街なので田畑も山もありません。街路樹や庭の植物の変化で四季の移ろいは感じられるのですが、ぼんやりと景色を眺めながら過ごすには整い過ぎているように思います。
まあ、虫が大の苦手である私にとっては、このくらいが丁度いいのかもしれませんが。
私の両親は南の離島に住んでいるのですが、そこの何もないきれいな海で波音を聞いていると、いつの間にか大きくなっていた負の感情が引き潮と一緒に流れて行って、心と頭が浄化されていくのを感じます。本当に、自然は何人にも同じように与えられた恩恵ですね。
梅雨に対する気持ちは、私も同感です!
和室がカビ臭くなるというデメリットを差し引いても、空に向かって「梅雨さん、ありがとうございます」と拝みたくなります。
いつも素敵な写真とお話をありがとうございます。
辛い夏がやってきますが、胃腸の調子を整えながら実りの秋を待ちましょうね。
たおさんはお近くに海があるのですね。
四季が移ろい、風が吹き、雲が流れ、川が流れ、波が寄せては返し、、、何かしら身近に、自然の「流れる」ものがあると人の心は癒されますよね。
たおさんが今のお住まいを「丁度いい」と思っておられるように、私もまた、自然だけが多く会って何もない田舎が「丁度いい」と思って住まいしていますから、「みんな違ってそれがいい」です。(笑)
もう本当に、年々歳々、この季節の日差しの強さへの抵抗力がなくなってしまって、雲を見て外出するタイミングを計るほどです。
「辛い夏がやってきますが、胃腸の調子を整えながら実りの秋を待ちましょうね。」
はいはい、泣いても笑っても真夏日が続きます。(号泣)
根性で夏をサバイブしましょう。