「夏のヒメジョオン」夕景河川敷散歩 (nya.1363)
暑かった(涙)、、、でも美しかったです。 (2020年7月24日)
毎年、夏至の頃に一度は河川敷に行って、刻々と変化する夕景の中に身を置いて、川と川面に映る空と生命力が横溢した夏草の「草いきれ」を楽しみたいとウズウズする私です。
とは言うものの、目指している河川敷は徒歩圏内にはなく、自宅から車で15分ほど離れていますから、私がすることと言えば「なんか、うまいこと、出掛けた用事の帰り道がバッチリなタイミングにならないかなぁ、、、」と調子のいい妄想をしながら、頭の片隅に「夏至の河川敷の夕景」と書いたポストイットを張り付けるだけのことなのですが。(笑)
夕刻とはいえ、暑さがまだまだ残る日没前、汗だくになることが確実なイベントですので、「ついで」でなければなかなか重い腰が上がらないのは道理ですよね。うんうん。
で、今年の梅雨の長雨とそんなこんなでズルズル機会を逸し、どんどん日没が早くなって「とほほ」と思っていたのですが、ついにそのタイミングに巡り合いました。
よりにもよって、鍼治療の帰り道がそのタイミングでした。(嘆息)
なぜ「よりによって」なのかというと、鍼治療を終えた私は、懇切丁寧な「お灸」の施術によって、体の深部に至るまですっかり温められているのです。
想像してください、ただでさえ「ネバーエンディング・ホットフラッシュ(涙)」の私が、マックス温められて「オッケ♪全身の毛穴も開いてるし、いつもの2倍マシマシで汗をかくことが可能だよ、ふふふ♪」状態の体で夏の河川敷を散歩すると、どのようなことが起こるのか。(笑)
そして想像してみてください、いつもの散歩なら首にタオルマフラーで保冷剤を巻き、ヘアバンドと帽子で流れ落ちる汗対策の「完全武装」をして挑む私が、日没との競争に気が急いて、気が付けば帽子も、ハンカチも持たずに河川敷を散歩している自分に気が付いた時の切なさを。(笑)
気付いた時は、車に引き返すにも「もう遅い、、、(涙)」と思わざるを得ないほど、河川敷を歩いている迂闊な自分を呪いました。
折しも私がその時来ていたのは「モカベージュ」のTシャツとターコイズブルーのガウチョパンツとサンダルで、アスリートにもウォーキング愛好者にも「全く」見えないのに、首の周りから、胸元にかけて、どんどん汗染みが広がっていくのです。(涙)
でも、幸いなことにココは、夏の、夕方の、「田舎の河川敷」ですから、限りなく人影はまばらですし、知り合いに会う確率もほぼ0%です。(万歳)
全長4kmほどの河川敷の遊歩道を私と共有しているのは、犬の散歩をしている女性1人、自分を追い込んで走っている男性1人、ベンチに座って犬を愛でている男性1人、以上です。
安げなデジカメを片手に、田舎の人からすれば「ただの草叢」にしか見えない風景を激写している、汗だくのアラフィフ女を「ちょっと、可笑しいんじゃ?」と可哀想に思う人は3人だけだと思えば、頬が緩みます。(笑)
つまるところ、、、私という人間は、暑かろうが寒かろうが、汗だくになっても苦にならないくらい、こうして自然の中に溶け込んで「きれいなもの」を見ることが心底楽しいと思っているんだなぁ、と再認識するくらいハードな散歩となりました。
田舎の河川敷、ベンチが2、3あるものの、人を集めようという意欲の全くない河川敷ですから、当然、そこに生える草も花も人の手が加わることは皆無です。
それなら、毎年同じ場所で同じ季節の花に出会えそうに思いますが、たとえ毎年きっちり同じ季節、同じ日時に行ったとしても「同じ風景」に出会うことはありません。
気温も、降雨量も、日照時間も「同じ」ではないのですから、その年ごとの条件に応じて「優勢」になる植物は違ってくるのです。
今年の「今」はヒメジョオン(姫女苑)が謳歌しておられました。
田舎者にとってヒメジョオンは、本当に「雑草」というカテゴリーに分類される花です。
タンポポやすみれや朝顔のように、雑草であっても愛でられ歓迎される花が多くある中、ヒメジョオンは白く可憐な花ではあるものの、その生命力は大したもので、田舎者にとっては「どこにでも咲く花」以上でも以下でもない存在です。
咲き始めた時こそ「ああ、もうそんな季節かぁ」と思いますが、すぐに見慣れてしまって、たくさん咲いてるから手折って花瓶にでも活けようかなと思うこともなく、自然の背景の一部になってしまいます。
でも、見てください。
夕陽に照らされたヒメジョオンは、美しくも神々しいです。
結局、「雑草」などというものはないのだと教えてくれます。
人間界において「雑草」にカテゴライズされる私こそ、「雑草」を愛でなくてどーする、そんなことを思いながら、吹き出す汗を今度こそハンカチで拭きながら、帰宅した夏の散歩でした。
(おしまい)