毎年8月に「もやもや」と思うこと (nya.293)

時代の大きなうねりを感じる8月 (2017年8月18日)

ねこ、風太 お散歩

私が住んでいるのは「真正の田舎」で、大小の古墳が点在するような古い土地です。

長い歴史を持ちながらも「合戦」とか「空襲」とかの戦禍とは無縁に存在しています。

私の暮らす集落には氏神様が2つあります。

小さな集落(小字:こあざ)が5つ集まって一つの集落(大字:おおあざ)となり、その大字に住む住民が2つの神社を祀って、元旦、春祭り、秋祭り、になるとお参りします。

そのような神社の境内のすぐ外に「慰霊碑」があります。

幼い時は親に手を合わせろと言われて、神社でも、お寺でも、お墓でもないものに手を合わせることが不思議でしたが、「慰霊碑」の意味が分かる年齢に達すると、慰霊碑に刻まれた文字を読むようになりました。

驚いたことに、そこには『西南の役』から『太平洋戦争』までの戦没者の方の名前が刻まれていました。

『西南の役』って・・・・・・、あの鹿児島の・・・、西郷さんの・・・。

念のため、

西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、2017年現在日本国内で最後の内戦である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89

予想外のことに茫然としました。

この、見事に何もない平凡な田舎から『西南の役』に出兵し、戦死した人がいるのです。

そして、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争の戦没者の方のお名前が刻まれています。

現在300世帯、800人程度の規模の地域の1877年から1945年までの68年で、戦没者が70人程度。

時代というものは、本当に人の人生を左右する途轍もない大きな波なのだと思いました。

私の祖父は93才で大往生しましたが、シベリアに抑留された経験を持つ人でした。

典型的な「百姓の爺さん」で、車の免許も持っていなかった彼は、家の前に広がる田んぼとその向こうに見える山までが「こっち」、山の向こうは「あっち」という区分だけで生きていける生活圏の中で生涯を送った人でした。

本当に、それで「完結」する人生を送るべき人だったのに、時代が許さず、徴兵され、シベリアに抑留され、足の指数本と右耳の聴覚を凍傷によって失っています。

ねこ、風太 お散歩

 

8月は、広島、長崎の原爆投下の日があり、終戦記念日があり、ご先祖さまをお祀りするお盆があり、で、何かとマスコミでも採り上げられますし、触発されて「時代」や「戦争」や「人の一生」「命の使い方」について、もやもやと答えの出ないことを考えます。

戦後72年経過し、50才になる私は、『戦争を知らない子供たち』という歌が、中学校の音楽の授業の副読本の中に収められていましたし、同じく中学校の「掃除の時間」にはビートルズの『ヘイジュード』が流れ、『ら~ら~ら、らっらら~ら~、らっらら~ら~、へいじゅうど♪』と意味も分からず歌いながら掃除をしました。

The movement you need is on your shoulder すべてはきみ次第で変わっていくんだ

Hey Jude, don’t make it bad なあ、ジュ―ド 悪いように考えるなよ

Take a sad song and make it better 悲しい歌も、素敵な歌に変えてくれよ

 

戦前の軍国主義教育の名残などどこにもなく、「戦争」「差別」は悪であり、「平等」「博愛」「民主主義」が善であると教えられて育つ「幸運」に恵まれました。

今もそうですが、戦前の日本は、アジアを日本のものにしようとした「帝国主義」の国で、貪欲に他国に「侵略行為」を繰り返した「軍国主義日本」は、戦争犯罪者、加害者であるという世論でした。

そのような戦前の日本人を思う時、戦後に生まれた自分自身と、同じ歴史を持つ民族、連続した地平にいると思えませんでした。

集落の「慰霊碑」の前に立っても、同じ土地に生まれ育った人たちではあるものの、「別の時代、異なる空間」で起きた悲劇だと感じていました。

その後、自分なりに学習し、歴史は「戦勝者」が恣意的に己を美化して作り上げるものだと知りました。

「戦争が悪」であることには変わりないものの、いろいろな思惑や思想が複雑に交錯した結果の戦争であり、単純に「白黒」と線引きできないこと知った時は、何を信じていいのか分からなくなりました。

「日本が犯した罪」である戦争にも、別の見方があることを知ったのです。

戦争という「非人道的」なことをしたのですから、日本人もまた「非人道的な行為」をしたことは間違いなく、加害者であることは「確定」なわけですが、アジア諸国が西洋の植民地支配から解放されるための「戦争であった」という点において、感謝され、評価されてもいたのです。

江戸時代、中国が「アヘン戦争」によって蹂躙されているのを知り、日本自身が「植民地」となる恐怖から明治維新を起こしたことは知っていましたが、その延長線上に太平洋戦争もあったのだと得心し、初めて戦前の日本人と今の自分が同じ地続きに立っていると思えました。

戦争を礼賛することも、日本人を「選民思想」で捉えることも、心底大嫌いですが、アジアが西洋の植民地支配のくびきから解き放たれ、個々に独立することが、日本の「独立を担保する」のだと考えたのなら、「分かる」と思うのです。

ねこ、風太 お散歩

■シンガポール
◎ゴー・チョクトン 首相

「日本軍の占領は残虐なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は、自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内に、アジアの植民地は、すべて解放された」(「諸君!」平成5年7月号)

■アメリカ
◎ジョイス・C・レプラ コロラド大学歴史学部教授
「日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味をもっていた。いまや真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮び上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地支配復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。」    (「東南アジアの解放と日本の遺産」)

■インドネシア

◎プン・トモ 元情報相
「日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。…そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。そして実はわれわれの力でやりたかった。」         (昭和32年の来日の際の発言)

◎サンバス 元復員軍人省長官
「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」

世界はどのように大東亜戦争を評価しているかhttps://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/844

 

ねこ、風太 お散歩

今、これまでの人生の中で、一番「戦争」が身近に感じられる状況に置かれていると感じます。

韓半島情勢、中国の野望、アメリカとロシアのパワーゲーム、毎日耳にする情報のどれもが「紙一重」のように感じられます。

加えて、今の私は【乳癌ステージ4】です。

死に至る病を抱え、いつ死んでもおかしくないにもかかわらず、いたって「平凡な日常」を送っています。

青天の霹靂で自分が【乳癌ステージ4】だと知り、自分が「死ぬんだ」と知った時の、感覚。

それまで割れることを予想していなかった地面がパックリ割れて、水中深くに投げ出され、どっちにもがけば水面から顔を出して息継ぎが出来るのか分からない恐怖とパニック。

自分の命でありながら、自らの努力や献身ではコントロールできないものに飲み込まれる不条理。

あの感覚が、平和な日常から戦争に突入したと知った時のものに近いように思えます。

戦争になれば、あのような恐怖を徴兵される若者とその家族に与えるのだと思う時、「戦争は悪」であり、絶対に避けるべきものです。

【乳癌ステージ4】であることで死について思うことが増え、遠かった「戦争の悲惨さ」について以前よりリアルに考えられるようになりました。

しかし、言い尽くされた言葉ではありますが、古今東西、有史以来、人類は戦争を続けています。

先の戦争を思う時、私は私の祖父とあの「慰霊碑」を思い浮かべます。

山の「こっち」しか知らない青年を「シベリア」まで運んでしまうこと。

のどかな山と田んぼしかしか知らずに育った同郷のご先祖さまが、生きたくても生きられなかった短い生涯。

原爆や空襲で、命も家族も平凡な日常も奪われた方々の哀しみ。

今の日本を「残す」ために、自らの命を賭して闘い、戦死された方々の想いと願い。

 

「絶対悪」の戦争を通じて、勝者と敗者が分かれ、勝者によって作られる歴史と、犠牲者の痛み、時代の大きなうねり。

勝者によって行われた無差別殺戮である「原爆投下」と「空襲」が裁かれることのない現実。

「人の一生」って、「命の使い方」って、と答えの出ない問いを、どこまでも青い真夏の空を見上げながら、もやもや考えずにいられない「8月」です。

 

【西田高光・海軍中尉/「民族の誇り」】(1945(昭和20).5.11日、南西諸島洋上にて戦死。亨年22歳。大分県出身。大分師範学校。神風特別攻撃隊第五筑波隊)

「(西田中尉は、現在ここにいる人々は皆自分から進んで志願した者であることと、もはや動揺期は克服していることを述べてこう言った) 学鷲(注、学徒航空兵)は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・。」

(右記の言葉は、西田中尉が出撃二日前の昭和二十年五月九日鹿児島県の鹿屋基地に於て、海軍報道班員・山岡荘八氏の質問「この戦を果して勝抜けると思っているのかどうか? もし負けても悔いはないのか? 今回の心境になるまでにどのような心理の浪があったか?」に対し返答したもの)」(日本時事評論 第1598号(H17.12.16)より転載。株式会社 日本時事評論TEL:083-932-6665)http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/daitoasensoco/heishinosyukico/tokkotaiheishinosyukico.htm

 

次は

です。

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毎年8月に「もやもや」と思うこと (nya.293)” に対して8件のコメントがあります。

  1. ココア より:

    ふるゆらさん

    戦争について考える8月ですが、
    一市民の大人としての役目は次世代に戦争を絶対に起こさせてはならないと思いますね。
    世界各地のテロや自然災害にも驚く現実ingに慣れてしまわないように、病みながらでもこれだけはアンテナ張ることが生きる目的のような気もします。
    戦争加害者の人格が変わるのが恐ろしいですね。被害者はさらに悲惨です。

    どうか戦争が起こりませんように。
    今の平穏を噛みしめる日となりました。ありがとうございます。

    1. ふるゆら より:

      「ココア」さん、私もそう思います。

      毎日のようにニュースで流れる「テロ」という音の響きに、衝撃を感じなくなった自分がいます。

      遠い異国の地で、無辜の市民が理不尽に命を奪われるニュースを聞くことが「日常」になっています。(嘆息)

      「日本はテロの対象とならない」かのように思うことは「錯覚」なのだと、その度に言い聞かせます。

      疑心暗鬼で人間不信になるのではなく、他人事のように無関心になるのではなく、「バランスの取れた立ち位置はどこ?」と自問自答します。

      今、生かされていることを感謝して大いに楽しみ、次世代の日本人に負の遺産を残すことにならないような「バランス」

      難しいですね。

  2. 金太郎 より:

    ちょっと重いコメントをしたので追伸を。

    以前庭のキュウリが壊滅状態とコメントさせていただきました。
    ほとんど立ち枯れの最後の一本も引っこ抜くつもりでしたが忘れて放置。
    いよいよ先週思い出して抜こうとしたらなんと赤ちゃんキュウリ数個と極太2本を発見。
    根元から5~60センチはほぼ枯れているのに、その上に勢いのある葉が茂って梅の枝に蔓が絡み~。

    その後やや小さめのものが翌日には巨大化という状況が続き1週間で10本ほど収穫しました。
    皮が少し硬いだけでとても瑞々しく素晴らしくおいしいキュウリでした。
    普通サイズの3~5倍ある無農薬キュウリですから、この夏の畑の首席となりました。

    生命力ってハンパでない、生を投げ出さないということを教えてくれたようです(合掌)。
    キュウリに負けているわけにはまいりませんな。

    1. ふるゆら より:

      はい、金太郎さん、いつだって自然が私たちに生き方を示してくれます。

      自然は境遇を嘆いて「自己憐憫」に陥ったりしません。

      いつだって「置かれた場所」で、最善を尽くすのです。

  3. 金太郎 より:

    私たち夫婦それぞれの両親は中国からの引揚者で、父親は共に軍人でした。
    母からは終戦間際に参戦してきたロシア軍から間一髪で逃れた時の話など聞かされました。

    上野駅から公園に続く階段で多くの傷痍軍人が物乞いする姿を、手や脚、時には四肢を失った白衣姿を幼い子供心に焼き付けています。

    演奏会や展覧会を目的に時々上野公園に行きますが、その階段を通るときはいつも、まだ若かったあの人たちのその後に想いを馳せずにはいられません。
    階段を上ると西郷さんの像も直ぐです。上野では内戦でも多くの血が流れました。

    私も戦争を知らない子供たちの一人ですが、平和というのはいつも薄氷の上と感じて生きてきました。
    若い頃から命というものに脆さや儚さを感じていました。

    癌だと分かった時、ほとんどショックを受けなかったことも、自分の生をコントロールできない戦争というものへの諦観がその根っこにあったのかもしれません。

    むしろ癌になってからの方が生きている実感があるというのは面白いです。
    どこまでクリアできるか分かりませんが、やりたいことリストも増える一方ですしね(笑)。

    1. ふるゆら より:

      「金太郎」さん!!体調はいかがですか?

      少しは楽になられていたらいいのですけど・・・。

      そうですか、金太郎さんは、私なんかより余程戦争を身近に感じて生きて来られたのですね。

      私の住むような田舎で日々を過ごしていると、毎日耳に入るニュースがどれほど切迫していようと、ついつい「他所事」として流してしまいます。

      いやいや、それは違う、そんな風に他所事として考えるのは良くないぞ、この国を構成する「大人」の一人として、当事者感覚を持たねば、と自戒することがしばしばです。(嘆息)

      【乳癌ステージ4】となって直面する「死」と、天災によって奪われる命と、戦争やテロのように人為によって与えられる「死」と・・・・・。

      考えれば考えるほど、こんがらがってしまいます。

      丁寧に生きたいと思い、誠実に生きたいと思う自分と、途轍もなく大きな時の流れのコントラストにクラクラするのです。

      せめて、世の中の動きに目を凝らし、奇妙な「印象」や「誘導」に惑わされない自分でありたいと願います。

  4. はち より:

    はじめまして。
    昨日までで全部を読み終え、今日からやっと季節感あふれる写真も「真正の季節感」として感じられるかと…
    でも、本日は「夏」ではなくて「8月」を私なりに考えることとなりました。

    今は街場に暮らしておりますが、生まれ育ったのは県庁所在地から車で2時間以上の田舎なので、ふるゆらさんのお話に「ある、ある!!」とうなずくことばかりです。
    乳がんブログとして読み始めましたが、今では風太くん、すみればあばのレシピが楽しみでなりません!
    明日、きゅうり1kg(半量でお試しです)買ってきます!

    1. ふるゆら より:

      「はち」さん、初めまして、コメントありがとうございます。

      おお、『完読』されましたか!!ありがたや、ありがたや、合掌。(笑)

      お気に召していただけて嬉しいです。

      リアルタイム突入で「もやもや」させてしまって、恐縮です。(笑)

      普段の『まいにち風太、まいにち田舎』は決してもやもやしませんので、楽しみにしていただけると幸いです。

      これからも「田舎あるある』をお届けします。

      田舎ではもう、日中は「夏」ですが、夜は「秋」です。

      植物が気忙しく「実りの季節」を走り抜け始めました。

      追いかけるのにひぃひぃするのですが、「はち」さんのように楽しみにしてくださっている方がいると思うと、それもまた「愉し」です。

      「きゅうりの辛子漬け」、新鮮なきゅうりをゲットしてくださいね。(笑)

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