雨のち晴れのち雨 12月田舎散歩 (nya.768)

水滴

たまには雨の日に散歩をしようか、と思いました。 (2018年12月7日)

このブログを始めて、早3年が過ぎました。

今思っても、さして体力がない私が、フルタイムの仕事をしながら書き始めたことが信じられません。(笑)

私という人間は、必要に迫られない限り「軟体動物」として、ひたすらだらだら~っとして過ごすのが通常生態であり、かつ、ひたすらだらだら~っとして過ごすことに苦痛を覚えず、ただただ喜びを覚える変人です。(笑)

薮の中

薮の中

ヤブコウジ(藪柑子)

ヤブコウジ(藪柑子)

薮の外

薮の外

とはいえ、必要に迫られた時には覚醒し、「臨戦態勢スイッチ」が入った時の自分は、我ながらパワフルかつ勇猛果敢で、周囲から「怖えぇ~」という評価をいただきます。(嘆息)

臨機応変が求められる仕事中の私は、常に「臨戦態勢スイッチ」を入れていましたので、今さらながら、負荷の大きな生活を長年自分に強いていたのだと思います。

3年前に書き始めたブログは、必要に迫られていたということは全くないのですが、私の人生の指針である「野生の勘」が、『今、書き始めるのだ!!』としきりに訴えてきましたので、渋々「臨戦態勢スイッチ」を入れた次第です。

 

畑の道

畑の道

畑の道

畑の道

畑の道

畑の道

これまでの経験から「野生の勘」には、逆らわないようにしています。

その時には分からなくても、「野生の勘」は私を面白い所へ、必要な所へ、絶景に出会える所へ、連れて行ってくれるからです。

そうして書き始めたこのブログもまた、今の私にとって「やっぱり」と思える大切なものになっています。

自分の非日常的な体験である【乳癌ステージ4】の経過を時系列に書き終えた時、その後もブログを継続するには、あまりにも凡人、あまりにも平凡な日常に愕然としましたが(笑)、開き直って「平凡」を「ウリ」にすることにしました。

畑の道

畑の道

ヒメジョオン(姫女菀)

ヒメジョオン(姫女菀)

紫陽花

紫陽花

『まいにち風太、まいにち田舎』というタイトルにして、血統書からは程遠い日本猫の風太と、何も特筆すべき特徴のない田舎の風景の写真と、「軟体動物」かつ凡人である私にも可能な程度の文章を並べることにしたのです。

本当に深く考えて「コレ」に行き着いたなら、私も胸を張って『目の付け所がシャープでしょ(え?このコピー昭和ですか?)』と言えるのですが、まぁ、これも、ホレ、例の、「野生の勘」です。(笑)

ともあれ、それまでも家の周りをデジカメを持って「徘徊」していた私ですが、それ以降も「徘徊」を続けることになりました。

畑の道

畑の道

タンポポと紅葉

タンポポと紅葉

すみれ

すみれ

何しろ、「徒歩1分で自然の中」ですからお気楽です。(笑)

そして、休職して本来の「軟体動物」に戻った私には、必要最低限の「運動」です。

常に「楽」であることを求める「軟体動物」故に、時間も頻度も気分次第ですから、自然な成り行きとして「晴れ」の日が多くなります。

しかし、休職を続けること1年が経過しようとしている今、「雨の日の散歩もいいじゃないか」と酔狂なことを思う、本当の意味で「本来の自分」が復活しました。

畑の道

畑の道

柿

野茨の実

野茨の実

前日から雨が降り、当日も朝から降ったり止んだりしていました。

私のようなカメラの腕前では、あまり眩しくない方が、本来の色を写しやすいこともあり、「雨もいいかな?」と思いました。

それに何と言っても、12月とは思えない暖かさです。

お昼前には、「このまま雨が上がるかな?」と思うくらいの小雨になったので、おもむろに長靴を履いてGOです。

何に感謝したらいいのか、、、こんな風に気まぐれに散歩できる時間を赦されていることに合掌です。

畑の道

畑の道

畑の道

畑の道

雲間

雲間

私は大体2時間くらい「徘徊」するのですが、この日は薮を抜けて、他所様の畑の中を歩いて、30分もすると「汗ばんで」きました。

12月に散歩するのに、汗が流れるなんてことを想定していないので、「寒くない」武装をしていることが仇となり、ホットフラッシュが開始されました。(涙)

もちろん、首タオルなんてしていない私は、ぽたぽたと汗の水滴を振り撒きながら歩きました。

そして、、、、、「ん?」と思って空を見上げると、、、、、、雨の日の風景を求めて出掛けた私の頭上には青空が、、、、、、。

 

雲間

雲間

雲間

雲間

ツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)

ツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)

 

雨の日狙いの私としては、二重の意味で「そらないっしょ」とため息をつきました。(嘆息)

確かに私は「晴れ女」ではありますが、天気予報はキッチリ「雨」でしたし、何より、日差しは更に私を温めて、茫々と汗が流れ落ちるのでした。(涙)

11月も暖かい日が続きましたが、12月もぽかぽかですので、季節を迷ったタンポポやすみれが紅葉とコラボしています。

「うわぁ、珍しい」というより「そりゃそうよね」と、春の花たちの徒労に同情します。

・・・ついには、足元で蝶々が、さっきまでの雨で濡れた羽を広げて日光浴をはじめました。

日差しがあるのとないのとでは、同じ自然も全く異なる色彩となります。

田舎の山

田舎の山

田舎の山

田舎の山

田舎の山

田舎の山

まぁ、これも一興、これが自然、人知で計ることができないから、魅力も尽きないのです。

来た道を引き返すと、雨雲の下では目に留まらなかったのに、日差しを受けて輝くと、驚くほど美しい色彩のハーモニーの洪水です。

畑の道

畑の道

畑の道

畑の道

畑の道

畑の道

変わり映えのしない自宅周辺の散歩道ですが、1週間もすると目立つ草木の主役が入れ替わり、全く別の空間に足を踏み入れているようで、飽きることがありません。

「きれいだなぁ、きれいだなぁ」と思いながらシャッターを押せば、ブログに載せきれないほどの写真が撮れてしまいます。

今日は「雨のち晴れ」だったなぁ、と思いながら歩いていると、薄情にも私をおいて出掛け、毎日の巡回警備活動にいそしんでいる風太に発見されました。(笑)

「にゃぁ、にゃぁ」と何か喋りながら近づいて来る風太と、しばらく遊んでいると、、、いつの間にか空は雲に覆われ、大きな雨粒が落ちてきました。

こうなると、風太も私も撤収です。

抜け道を使って私より早く家に着いた風太が、待ちくたびれた顔で、納屋の戸を開けるのを待っていました。

おしまい。

ねこ、風太 巡回

相方発見。

次は

です。

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雨のち晴れのち雨 12月田舎散歩 (nya.768)” に対して4件のコメントがあります。

  1. ゆうこ より:

    ひたすらだらだらするのは良いことです
    そうしないと休んだことになりません
    ふるゆらさんは今は人生の有給休暇中なのですから。
    と同時に人生の棚卸し 総決算 仕上げ段階なのかも知れません
    あと一年 現状維持を保ち 光免疫療法が施行されたら寛解するのですから。

    私の父ちゃんもシャープに勤めてましたよ。昭和のコピーです。
    今はホンハイになってしまいましたね。栄枯盛衰です
    私の父とふるゆらさんのお母様は同い年です。戦前の生まれですね
    私の父は5歳の時 防空壕に逃げて B29が去ったあと自宅に戻ったら
    真っ黒焦げで無くなってたそうです。こういう過去を持つ人はハガネのように
    強いですね。しかも辰年だと特に(ノ-_-)ノ~┻━┻

    1. ふるゆら より:

      ほんとに、そーなんです、ゆうこさん。

      ひたすらだらだらすると、馬車馬のように駆け抜けた社会人生活で忘れかけていた自分の「地金」が蘇ります。

      そして今回思い出したのが、「ああ、私、雨の日に傘を差さずに歩くのとか好きだったな」です。

      一年かけて休んだ果てにようやく思い出したこの感覚、心と体に余力があった時の自分が懐かしく、螺旋階段をようやく一周回ることが出来たような嬉しさもあります。

      同じ景色を楽しみながらも、まったく同じではない自分がいることが楽しいです。

      1. ゆうこ より:

        すごいじゃないですか!
        人間が知らなければならないことはひとつもない
        ただ思い出すことだけだと ある本に書いてありました
        螺旋階段は時空ですね
        時の経過というのは歴史の年譜みたいに直線上を進んでいるように
        考えがちですが 実は螺旋階段のように円を描きながら上へ
        登っていくようなものだそうです
        連続しつつ、かつ同時に起こっているんだそうです。この一瞬に
        全てのことが同時に。私達はそれを理解する視野を持たないだけだ
        そうです
        連続同時。頭が壊れそうですね
        あなたの行くべき天国というものはどこにもない(nowhere)
        あなたのいる所が天国なのだ(now here)
        ということだそうです
        この一瞬に 過去も未来も今も「時」と私達が認識する全てが。
        だから時間と空間というのは確かに存在するように見えて
        実は全く存在しようがないものらしいです
        実はね。でも人間の頭脳はそれを理解しないので 時計があり
        ここからあそこまでは距離があるから空間が存在する、と
        認識するので その通りに顕現しているのだそうです
        今の一瞬が時間を超越して全てが同時に、かつ静止せずに
        永遠に連続し続けているということは……無数のふるゆらさんが
        存在しているということです。そしてそれは蓮の花が開くように
        どこまでも拡張して広がっていくのだそうです
        愛の本質ですね
        これを「超現実」といって死ぬ直前に誰も理解するそうですが
        生きてる間でも理解出来るんだそうです。その 第一歩ですよ!

        訂正 ✖昭和のコピー → ○平成のコピー

        1. ふるゆら より:

          ありがとうございます、ゆうこさん。

          ゆうこさんの仰る理論はよく分からない私ですが、「社会人」に適応するために封じ、捨ててきた自分を拾っている感覚です。

          「拾う時間」を与えられた幸運に感謝しつつ、蘇る感覚を愛おしく思います。

          中島みゆきさんの『最後の女神』ですね。

          いちばん最後に見た夢だけを、人は覚えているのだろう

          幼い日に見た夢を、思い出してみないか

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