懲りずに「雪の日散歩」風太と私(嘆息) (nya.838)
冬は「待つ」ことを思いながら過ごします。 (2019年2月15日)
「昭和」な人なら覚えていると思うのですが、一昔、、、ふた昔前「大殺界」という言葉が流行りました。
細木数子さんと言う、一癖も二癖もありそうなおばさんの『六星占術』が当たるということで、テレビ番組も持っていましたし、その頃の「常識」のようなものでした。
四柱推命を分かりやすくしたような「占い」のそれは、人は誰でも12年周期で好不調を繰り返し、中でも不調の3年間を「大殺界」といい、また1年=12ヶ月にも同じような波があるというものでした。
「大殺界(だいさっかい)」という音の響きが、「何をやってもついていない」時期に心当たりのある自分を見事に言い当てているように思われ、「ほんとにね」とずっしり納得したものです。
今となっては「昔の常識」であり、当時ほど「大殺界」を意識して過ごしている訳でもないのですが、ふとした拍子に「私って、今、大殺界なんじゃ?」と思う時があります。
、、、というのも、私の場合1年の周期がどうも「冬にテンション下がるしトラブルな」と感じることが多く、草木が芽吹き始めると、私の心の弾力も復活するように感じるからです。
そして、『六星占術』が流行っていた頃に確認したところ、私の「月」の大殺界は、12月、1月、2月で、1年の内その頃の運気が最も下がるとなっていたため、「・・・気のせいじゃなかったんだ」と深く心に刻まれたのです。
「大殺界で運気が最高に低下している(嘆息)」と知っても、それから逃れる術もなく、何もいいことはないように思われますが、私にとっては「何をやっても上手くいかない」時期を経験したことで、大切なことを学んだと思っています。
それは「待つ」ということ。
生きることに大切なのは「自分を好きでいる」ことだと思っています。
成長したり、前進したり、誰かのためになっている自分を好きでいることは容易いけれど、そうでない自分を自覚すると落ち込みます。
でも、「出来ない秋(とき)」がある、と認めることが大切なのだと学びました。
時は川の流れのように、一瞬も途切れることなく自分の周りを流れていきます。
時には穏やかに運ばれ、時には逆巻いて押し流されます。
大いなる海へ無事に辿り着くために、「ここは川の右端じゃなくて左端に寄りたいぞ」と思うのに、どうしてもそこから抜け出せない、いつもなら、これくらいの流れはこれくらいの力でもがけば前に進むのに、なぜか力が足りない、そんな感じがしばらく続くのが「出来ない秋(とき)」です。
そんな時、ひたすらもがけば成果がなくても「もがいている自分」を肯定できるのでしょうが、もがくことも心底面倒くさく「ダメダメだな、私」と思う時、私は「待つ」スイッチをonします。
これは、劇的に自分を楽にできます。
これぞ「気の持ちよう」です。
つまり、人がなぜ「もがく」のかというと「ここから抜け出したい」と思っているのに、「このままがずっと続く」ことを恐れるからです。
でも、本当にそうだろうか、「このままがずっと続く」なんてことがあるのだろうか、「いつまでもいつまでも、このままであって欲しい」と願っても、必ず変化が訪れるのに、です。
「待つ」ということは、動かない決心をするということです。
常に流れの中にいる自分が、流されずその場に留まるということは、消極的でも怠惰でもなく、「この場から離れない」という積極的な意志がなければ叶いません。
私の心象風景では、雪山でホワイトアウトするようなブリザードに遭い、わずかな風よけを利用して、全身全霊で伏せている自分がいます。
このような状況では、前進しようとすることは「無謀」であり、伏せて天候の回復を待ち、体力を温存する方が、よほど「賢明」です。
このブリザードが、他者にとっては大したことでなくても関係ないのです。
自分の中で「ブリザード来た!!」と思ったら、頭を低くして待ち、待つことを選択した自分を肯定するだけでいいのです。
「気の持ちよう」、、、大きな魔力を秘めています。(笑)
私の暮らす温暖な土地では、滅多に雪が積もらないのに、先日珍しく一面の銀世界でした。
「いやいやいや、雪の写真は先日たっぷり撮ったから、今日は散歩しないぞ」と思ったのに、自室の窓から「マーキングトイレスポット」を探しあぐねて彷徨う風太の姿に大笑いし、釣られて出掛けてしまいました。
「真っ白な雪の上を歩く風太、なかなかいいぞ」と、張り切って長靴を履いて風太を追いかけたのですが、その日の風太は「一緒に散歩」の気分ではなかったようで、すぐにフェードアウトされてしまいました。(嘆息)
こういう時、呼べば必ず駆け寄ってくれる犬はいいな、、、と思うのですが、私が愛しているのは猫の風太(プータロー)ですので仕方ありません。(笑)
せっかくの銀世界、、、といっても5cmほどの積雪では、私の田舎は温暖で気温が高いために、すぐに溶けて消えてしまいます。
「長靴も履いたことだし、歩いてみるか」と、風太を諦めて散歩を始めました。
そして、雪の中を歩きながら考えたのが「待つ」ということです。
私は今現在も「待って」います。
「何もしない」ことを重ねて日々を過ごし、休職を選択して1年が経過しました。
フルタイムで働けない体調のためとはいえ、無為に過ごす時間に焦りを感じることもあります。
でも大丈夫、私は「その時」が来るのを待てます。
「その時」が何を指すのかも分からないのに、です。(笑)
冬来たりなば春遠からじ
立春を越えてから振る雪は、春へのカウントダウンです。
春が来れば来たでまた、夏を想うのだろうと単純な自分を笑いながら家に帰ると、風太がちゃっかりストーブの前で寝ていました。
風太が薄目を開けて私を見上げた視線は、「雪の中いつまでもウロウロしてアホじゃな」と雄弁に語っていました。(笑)
おしまい。
次は
です。
ふるゆらさんの「待つ」という言葉に、とても励まされ気づかされました。
ありがとうございます!
はいそーです、のりかなさん。
何才になっても成長しない自分にため息つくことしきりですが(笑)、「待つ」ということを知った分、無駄に歳月を重ねたばかりではないと、私は自分を慰めております。
「待つ」ことの先達としてアドバイスするなら、「待つ」と決めたら全身全霊で伏せるのです。(笑)
匍匐前進なら出来そうだと思っても、断固とした決意で行ってください。(笑)
親しい友人が声を掛けてくれるように、自分へ「よく頑張ったね、今は待つことにしようか」と言ってあげてください。
今日の 水墨画のような写真に オー!です
雪の日の 澄んだ空気も 伝わります。
はい、「滅多に降らない」から楽しめるんですよね。(笑)
雪かきの必要な暮らしの方には申し訳ないほど楽しみました。(笑)
∅・*:。✡*:新生・ふるゆらさん∅・*:。✡*:∅・*:。✡*:
「でも大丈夫 その時が来るのを私は待てます」
遂にこの言葉を言うに至りましたね
なんと力強く心強い言葉でしょうか
「私はいつまでも待つよ」という強い決心を感じます
「その時」が何を指すのかも分からないのに私は今現在も待っています
この言葉をどこかで聞いたな……太宰治の超短編「待つ」の主人公ですね
けれども ああ 私は待っているのです。誰とも何かも分からない「何か」を。
この超短編小説は「その省線の小さな駅の名は わざとお教え致しません。
お教えせずともあなたは必ずいつか私を見かける。」
で終わっているのですが確かに今見かけた気持ちがしています
30年の星霜を経て……万感の思いです
ゆうこさん、ありがとうございます。
「待つ」ということにはすごい力があるんだと、腑に落ちたのは30代も半ばの頃だったでしょうか。
子育てを経験したことのない私ですが、仕事で何十人もの新人教育をしました。
20代の頃には待てないで、すぐに口出していましたが、30代になると「待つ」ことを選べるようになりました。
「待つ」ということは、待たないよりもずっと「精神体力」が必要ですし、信じる心の強さを求められることなのだと知りました。
人も時も、待つことは信じることなのだと今は思っています。