乳癌検査結果待ち時間【やるべきこと】① (nya.7)
悶々の日々② ”シュミレートサバイバル” (2014年2月15日~26日)
今思い返しても、この『結果待ちの2週間』ほど、心が揺れて、悶々として、辛く苦しい思いをして過ごした期間はなかった、と思います。
いくら私が「気にしない」性分だと言っても、検査の結果が分からない以上、「乳癌である未来」と「乳癌ではない未来」の両方が、心に去来します。
想定の幅が広すぎるのです。なので、自分の「あり得る近未来」をシュミレートしようとすると疲れます。気分が、ジェットコースターのように、猛スピードで上下するのです。
・・・本当にしんどかった。
医者が検査の段階で「乳癌の可能性が非常に高い」と言ったのですから、たぶん、100%私は乳癌なのだと思います。それでも、医者の言った言葉に含まれる「可能性」という言葉に惑わされ、「やっぱり乳癌じゃないかもしれない」という心が捨てきれないのです。
99%自分が乳癌であることを受け入れてはいるものの、1%くらいは癌じゃない確率もあるのかもしれない、と思うことをやめられません。
そして、そのように思う度に、検査の時に医者の言った言葉のあれこれが蘇り、強酸性の怒りが沸き起こります。
普段の生活で、あまり「怒り」を感じることがなく、せいぜい「腹が立つ」程度の感情で過ごしている私としては、「怒り」のような濃く重い「負の感情」が自分の中に居座っていること自体が負担でした。
そんな中でも、現実的な対処として「最悪」を想定し、具体的にシュミレートしなくては、先に進みません。
第一に、自分が乳癌だと受け入れた上で、乳癌について学ばなくてはなりません。
すでに、針生検の時「部分か全摘か」というお題を医者からいただいています(涙)医者がこの調子でいくなら、次の2月27日の診察室で伝えられる「言葉を理解する」ためにも、「知識で武装」しなければ太刀打ちできません。(売られた喧嘩は買う、タイプなんです。私)
第二に、家族や職場への「癌告知」問題です。自分が乳癌だと知る意味の「癌告知」は受け身でいられますが、次は、自分で、周囲に「癌告知」をしなくてはならないのです。
起こるであろう波風のあれこれに、備える必要がある上、「誰に伝えるか」という悩ましい問題もあります。
第三は、自分に与えられた「時間が長くない」ことを前提にあらゆることを「再構築」することです。
『癌って、・・・ひょっとして、人に優しい?』と思うのは、この第三を可能にするからでしょう。
人は自分の意志で生き、生き方を選ぶことが出来る、と思うことも可能ですが、実際には、自分の意志では「選べない」ことが多くあるもの事実です。
「死に方」も選べません。「乳癌ステージ4」と診断された私の死因は、「乳癌が進行して臓器に転移、合併症で死亡で決定」と、したいところですが、交通事故や心停止で死ぬ可能性を排除することは出来ないのです。
【予告】なく死を迎えることも多い中、癌による死は【予告あり】です。
「身辺整理」も大切ですが、身体の自由が確保されているだろうと想定する短い時間の中で、「自分のやりたいこと」明確にして、それを手に入れることも大切です。
長くなりました。次の
に続きます。
ふるゆらさん、調子どうですか? お元気? 私はEC3クール目で、日替わりメニューのように襲ってくる副作用にめげてます(2クールは楽勝だったのに)。ふるゆらさんの癌関連のブログ全般は、私の検査を含む流れと近く、指針になり感謝です。不安で悶々としている心が落ち着きました。そして(nay.7&8)は「そうそう!私と一緒♡」。乳腺科にまわされ何回か検査した後、がん包括センターに移され、やっと主治医がきまり、2か月かかって正式に結果を聞きました。精神的にぼろぼろですよね。抗がん剤でダメージをうけ、数年生きながらえて再発してまた治療という生き様は絶対したくなかったのに。家族を考え自分で決断したのに、今でも不安になります。そんな時、ふるゆらさんの過去ブログを読み返してます。ギフトのようなブログです。心からありがとう。
絵里さん、副作用、大変そうですね。(涙)
風太と一緒にエールを送ることしかできませんが、空に向かって送りましたのでお受け取り下さい。
私は、申し訳ないほど「楽々休職生活」です。(笑)
不便なことはいっぱいありますが、疼くようなこともなく「痛くない」のです。
私の過去のブログを再読してくださってありがとうございます。
体調が良くない時は、「精神体力」も落ち込むので、ちょっとしたことで悲しくなったりイライラしたり、普段なら「何でもない」ところでつまずきます。
そんな自分が嫌になることありますよね。そして、また落ち込むというループ・・・(涙)。
このお話、いつかブログに書こうかなと思っていたのですが、完全オリジナルな私の「妄想」です。
私の妄想では、人はみんな「金魚鉢」を抱えて歩くのです。
中の金魚が飛び出さないように用心して歩くのですが、「生きる」といろんなことが起こるもので、走ったり、つまずいたりします。
金魚鉢の大きさも様々、金魚の種類も数も大小も様々、転びそうになって水が減ったら水を足し、運悪く落として割ったら急いで修理して、時に人から金魚を分けてもらえたり、交換したりして、みんな金魚鉢を抱えて歩く、そんな「妄想」です。
つまり、何事もなく普通に歩いているだけでも、金魚鉢の水は揺れるのです。
揺れていることが「普通」です。
坂道や夜道を歩くときは、とくに危険がいっぱいです。
金魚鉢を抱えて歩くなんて、ほんとうに厄介で面倒臭くて放り出したくなる時もしばしばですが、時折、木陰で休んで隣に置いた金魚鉢を眺め、元気に泳ぐ金魚をみると「よかった」と思います。
これが、私が自分の「心」を思う時の妄想です。
絵里さんの金魚は、どんな色、どんな形でしょうか。
ふるゆらさん、エールとすてきな金魚鉢のお話ありがとうございます。ここ何日か、気分が手負いのトラ状態で、母に八つ当たりして落ち込んでました。重たい金魚鉢をかかえて歩き疲れたら、放り出したくて泣けてきます。ふるゆらさんのお話で気づいたのは、私は木陰で休むなんて考えつかない人だということ。ただただ金魚鉢の水をこぼしながらぼろぼろの体でいつつくかわからない家に早く帰りたいと思うタイプです。心が疲れるわけですね。この金魚鉢のお話、ぜひ、タイトルつけて新しいブログで紹介してください。誰かの心の気づきになると思います。私の金魚もイメージしておきます。透明な空色かインディゴが浮かぶのですが・・・。
絵里さん、インディゴブルーの金魚がすぐに思い浮かぶのなら安心です。
今はアレコレ大変で、一歩一歩歩くごとに、水がバシャバッシャ跳ねて、金魚鉢のお水が少なくなっていることが心配でイライラしてるかもしれませんが、中の金魚ちゃんは、まだまだ平気に泳いでいるんだと思いますよ。
今の難所を切り抜けて落ち着いたら、お水を足してあげることもできるのですから。
今は「落としてしまわないように」だけ注意するのが精一杯、そんな時もあります。
この「金魚鉢妄想」にはもう一つご利益があって、自分以外の人も「みんな抱えている」と思えば、「うんうん、金魚鉢重くてイライラするの分かる」とか「お互い大変な思いをしてるんだなぁ」とか、「このひと、金魚鉢をなくしてしまったんだなぁ、悲しいなぁ」とか思えて「人に優しく」なれたりします。(笑)
「妄想」って便利です。(笑)