『がん放置療法』について「私が」思うこと (nya.56)
癌患者に与えられるべき選択肢 (2014年6月)
近藤誠医師の『がん放置療法』の本を読んだ感想は、「この本がベストセラーになったなんて、スゴイ」でした。
大体『がん放置療法』というネーミングがすでに「矛盾」を含んでいて、「癌」を放置すること、「癌治療」を放棄することは「無治療」なのであって、「療法」とは呼べないものを、『がん放置療法』と、昔からあった言葉のようにしゃあしゃあと「造語」されているのです。
「癌治療」を放棄していない医療、「抗がん剤」を開発し続けている製薬業界、そこに「選択」という自由意志が存在していたかは別として、「抗がん剤治療」を受けることを選び副作用に苦しんだ経験を持つ癌患者。
近藤誠医師の『がん放置療法』は、「癌に接点を持つ」全ての人に「これまでのやり方は、NO!」と反旗を翻しているものですし、「癌に接点を持たなかった人には「ちょっと待ったぁ!」と、これまでの「世の中の常識」として受け止められてきた「癌治療」についての再考を促しています。
私が「スゴイ」と感心したのは、「世の中の常識」とされるものを否定する過激な書籍は数え切れないほどありますが、それがベストセラーになるものは少ない、と思ったからです。
しかも、専門的な狭いカテゴリーの中のことではなく、「癌治療」という人々に身近で、すそ野の広いカテゴリーを取り扱って、「世の中の常識」を否定してみせ、さらにそれが「ベストセラー」という形で、世の中から支持されているのです。
本来なら「先生の言うことにも一理あるかもしれないが、世の中の仕組みはそうそう変わらんよ。」と少数の読者に読まれるだけで、話題にもならずに終わってもおかしくない程「過激」な著書であるにもかかわらず、何万、何百万という読者が、お金を払ってでも「読みたい」と思わせる「説得力」があるのです。
それだけ、世の中の常識とされてきた従来の「癌治療」「抗がん剤治療」に対する「疑問」「不信」「不満」が、蓄積されていたということなのでしょう。
自分自身が癌患者であれば、本当に切実な「疑問」ですし、自分の身近な人を癌で亡くした経験を持つ人ならば、誰でも「これで良かったのか?」と思うものだと思います。
癌という「死に至る恐ろしい病気」なのだから、死を避けるために、「癌治療の痛みや不快に耐えることは避けて通れない」という既成概念を前に諦めていた人たちに、『がん放置療法』は、別の方法を提示したのです。
私が「スゴイ」と思ったのは、まずこの点でした。
次に「ナイス!」と思ったのは、近藤誠医師が『がん放置療法』で提唱しているのは「癌を完治する」ことではなく、「癌と共生しながら生活の質(QOL)を確保する」ことなのです。
『がん放置療法』、これで「癌が治る」と言えば立派な詐欺ですが(笑)、近藤誠医師は、端から「癌を治そう」としているのではなく、目指しているのは「癌との上手な共生」です。
ただし、近藤誠医師も「治療」すべてを否定してはいません。
生活の質(QOL)を低下させないために、痛みや不快に対して、原因となる箇所を「手術」することも「放射線治療」することも推奨されています。
『がん放置療法』とは、「すべての治療を否定」するものではないのです。
患者の生活の質(QOL)を低下させるし、延命効果も認められないので、「癌を治すための治療は否定」するという提議なのです。
(「手術」「抗がん剤治療」に延命効果があるのかないのか、これまた大論争、大紛糾しています。)
近藤誠医師のこの「立ち位置」に、読者は共感するのだと思います。
「一分一秒でも長く」生きるための代償として、「絶え間ない吐き気や痛みに耐える」ことを受け入れられるのか?と自問しない人はいないでしょう。
「病の症状として生じる」痛みや不快が不可避なことは理解できますが、この場合は「癌を治す」ための、「治療によって与えられる痛みであり、不快」です。
これは「正解」のない問いかけです。
なぜならこれは、癌治療として、「抗がん剤」「手術」「放射線」のフルセットで治療することが【医療として正しいですか?】という問いではなく、あなたが癌患者や家族なら、癌と知った後【どう生きて、どう死にたいですか?】という問いだからです。
人の生き方に「正解」が無いように、人の生き方のどれもが「正解」であるように、古今東西、老若男女、全ての人が「死」の前では平等に、直面する「問い」です。
ですから本来、「世の中の常識」として行われている「癌治療フルセット」と、近藤誠医師の『がん放置療法』は、対立するものではないように、私には思えます。
人生に目的や使命があり、「一分一秒でも長く生きたい。そのためには痛みや不快に耐えられる」と思う人が、「癌のフルセット治療」を選択し、延命の道を探るのは当然のことです。
「出来るだけ痛みや不快に耐えることなく過ごしたい。そのために多少人生が短くなるのも受け入れる」と思う人は、近藤誠医師の『がん放置療法』のように極端な「放置」とまではいかなくても、「癌の根治」ではなく「癌と共生」する治療を選択すればいいと思います。
ではなぜ、これが論争になり、紛糾したまま数年を経ても折り合わないかというと、先の選択を患者に代わって【医者が選択する】からです。
「なぜ、治療の選択肢を提示して、患者に選ばせることが出来ないんだろう?」が、私の素朴な疑問です。
自分の意志表示が出来ない、認知症の老人や子供、障害を持つ人は、家族の同意がない限り延命を目指した治療を行うとしても、それ以外の患者には、「選択肢」を提示して欲しいと思います。
私がどう生きて、どう死にたいと思っているのか、赤の他人の医者に決めて貰いたいとは思いません。
「生死」に対して、私がどのような価値観を持ち、どのような経験を経て、今日まで生きてきたのか、医者が知るはずもないのです。
【医療の前提として患者の延命は、最優先事項。それが揺らいでは、医者としての職分が全うできない】と思う、医者の気持ちも分かりますし、「救急医療」の現場では正論です。
ただし、一人の人間として、医者と患者は同等な存在であり、医者が医療者の立場から思う「正論」は、医療に限定される「正しさ」であって、「人の生き方」という哲学の前には、選択肢の一つに過ぎないと思うのです。
少なくとも私は、自分以外の他者に、生き方の主導権を握られるのは「不当」だと感じます。
「でも、人の心はコロコロ変わるし、最初は『がん放置療法』でいきます、と言っていた人が、いよいよ悪くなって途中から「癌治療フルセットで延命してください」と言われても、癌は進行してるし、責任とれないよ」という「ぼやき」が聞こえるようです。(笑)
ですので、私の希望は、癌治療の選択肢を提示した上で、治療の途中で何度でも「意志確認」をして欲しいと思います。
医療訴訟を避けるために「今の時点で私は、この治療を選択しました」という誓約書に署名、家族の同意書も付ける形がいいと思います。
「手間がかかる」方法ですが、現在でも手術の前には必ず行われている確認作業です。
癌患者にとって、何がベストであるのかを「医者」が決めるのではなく、「患者」が決めることができるのが「ベスト」
これが、私の『がん放置療法』の感想です。
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次は
です。
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母が横行結腸ガンの摘出手術を昨日行いました
ステージ3b 進行性です。精密検査の結果は2週間前後で判明します。
母は手術前に、延命措置をしないことを、希望している気持ちを、尊厳死カードを見せて先生にお願いをしました。
家族みんな 母の気持ちを大切にしてあげたいと 母の意思を、尊重しなきゃ・・・と思いつつ、複雑な心境です。
先生からは、「改めて、抗癌剤での治療のお話しと
術後の母の気持ちを確かめてから、今後のことを熟慮していきましょう」と、父と私に術後の結果の説明の時に、お話しして下さいました。
尊厳死 延命措置 自分の最期を自分の意思で決めることの意味・・・
命って 儚い ですね
ななさん、大変な時にコメントありがとうございます。
心の中がぐるぐるですね。
自分のことならこうも混乱しないのかもしれませんが、大切に思うお母様のことなので、余計切ないですね。
私が考えたのは「自分の死」についてですから、やはりどこか「独りよがり」な感覚があるのかもしれません。
ななさんが仰る通り、『尊厳死 延命措置 自分の最期を自分の意思で決めることの意味・・・』って、個々人によって言葉の意味が異なるので、解釈が錯綜します。
どこまでが治療で、どこからが延命なのか。
尊厳をもって死ぬことをどれだけ大切に思うのか。
歩んだ人生の中で、「自分が死ぬ時はこうしよう」と心を決めた瞬間があった、ということであり、それが大きな決断であることは間違いないです。
私自身のことしかお伝えできないのですが、抗がん剤については、快方に向かい、1年でも2年でも自立して生きる時間が与えられるのなら、一時の副作用の苦しさを受け入れられるかもしれませんが、自立して生きられず、体の不調で生きることを楽しめない状況で、さらに1週間や1カ月の「延命」のために、さらに苦しむことが分かっている抗がん剤治療は、何としても「逃れたい」と思っています。
なるべく痛くなく、なるべく苦しくなく、終末期を過ごして、この世を卒業したいと思わない人はいないでしょう。
見当識を失ったまま、胃ろうの管に繋がれ、脳波が動き呼吸だけをしていることを「生きている」と、私は思えません。
お母様のように「尊厳死カード」で、その意思を宣言しない限り、病院にいる以上、「一分、一秒」を稼ぐための延命措置が行われます。
それは仕方のないことで、「病院」という組織はそのように出来ていますし、そうでなければ巨大なグレーゾーンが生まれます。
医師個人の判断で延命以外の治療法をとった場合、「医療訴訟」に繋がることを恐れるためです。
近親者が「納得」していても、遠い親戚が「不満」を持たれたら、訴えられるのは病院であり、医師です。
そんな危険を侵さないためにも、患者さんの苦しみを引き伸ばすと分かっていても、病院では「延命治療」が行われます。
ブログに書きましたが、医療にとって「最善」のことが、私の価値観では「最善」と思えない場合、医療よりも私の信条が優先されるべきだと考えています。
私は、周囲の大切な人たちの顔を見ても、その意味が分からなくなってしまうことを恐れます。
そんな時間は出来るだけ短くあって欲しい、と思っての「尊厳死」という選択です。
いろいろ勝手な解釈をペラペラ話して、ごめんなさい。
私がそう思って「延命治療拒否」を選んだというだけのことで、お母様は、全然別のことを思われているかもしれません。
お医者様が懐の深い方で幸運です。
術後が落ち着かれたら、お母様の想いを聞いて差し上げてください。
ななさんがコメントをくださった(nya.56)以降に、私の選択とその理由をアレコレ書いています。
ほんの少し、参考になれば幸いです。
末尾ながら、私が自分に言い聞かせている呪文をななさんにも贈ります。
「生きることに正解はない」
誰しも、迷いながら、最善と思われる道を進むほかないのです。
心に響くあたたかいコメントを どうもありがとうございます。
そうですね
生きることに正解はない
深ーい言葉ですね。
落ち着いたら、母の意思 ゆっくり聴いてみます。
主治医の先生は、父の主治医でもあり、約20年来、お世話になっています。
本当に、感謝している先生です。
また、コメントさせていただくかもしれません。
よろしくお願いいたします。
はい、ななさん、またコメントをください。
私の【乳癌ステージ4】な私が思う「終末医療」 (nya.59)や、【乳癌ステージ4】な私の延命治療拒否「事前指示書」 (nya.60)、【乳癌ステージ4】な私が望む、「卒業」の仕方 (nya.61)を読んでみて、近親者の立場から見たご意見をお教えいただけたらと思います。
私はこのブログを書くことで、自分の心を整理していきました。
ななさんも、「書く」ことが心のメンテナンスになるのかも?と思います。
もちろん、私宛ではなく、お母様に「お手紙」を書かれることもおススメです。
「話し合い」ではこぼれ落ちてしまう心が、手紙にすると「もれなく」盛り込めます。
お母様に渡さなくてもいいのです。
「お母様のことを思いながら手紙を書く時間を過ごす」ことで、ななさんの心がほぐれていくと思います。
ほんとうに、「生きることに正解があれば」どれだけ楽だろうと思います。(嘆息)
『女の一生』(おんなのいっしょう、原題・Une vie)は、1883年に刊行されたギ・ド・モーパッサンの長編小説。)の有名なセリフがあります。
私は亡くなられた大女優の杉村春子さんの代表作としてこの一部分を知るだけなのですが、忘れられない言葉です。
『誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの、間違いと知ったら自分で間違いでないようにしなくちゃ』
正解はなく、間違いもまた受け入れて「間違いでないようにする」のが生きることなんだと思います。
no rain no rainbow 雨が降らなければ虹は出ない
虹の多い、ハワイ言葉です。
たくさん涙を流したななさん、きっと虹に出会う日があります。