音楽と料理が私の人生に戻ってきた不思議 (nya.1426)
『You Raise Me Up 』を聴きながら (2020年9月25日)
ええとまず、今日のブログは、マーティン・ハーケンスの歌う『You raise me up』という曲を聴いてから読んでいただきたいのです。
「マーティン・ハーケンス、、、誰?」と思われる方もおられますよね?
彼は現在66才、7年前の59才で2013年のオランダ版ゴット・タレントに出場したのですが、その時の彼は、歌手希望ではあったものの「失業中のパン職人」、娘さんが彼に無断でゴット・タレント応募し、なんと優勝したという異例の経歴の持ち主です。
そんな彼が街角で歌う『You raise me up』が絶品で、歌詞の意味と相俟って心に沁みます。
曲そのものは、2002年 アイルランド&ノルウェーの二人組「シークレット・ガーデン」の楽曲で、多くの歌手にカバーされている名曲です。
日本語訳は色々あって、ラブソング的に解釈したものが多いのですが、私的には『You raise me up』の「You」は、目に見えない大いなるものを指していて、賛美歌なのではないかと思っています。
私の大好きな『なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる 西行』の歌と同じ意味のことが歌われているように感じます。
https://www.youtube.com/watch?v=S0mOXC8pJfM
When I am down and, oh my soul, so weary
When troubles come and my heart burdened be
Then, I am still and wait here in the silence
Until you come and sit a while with me
静寂の中で待つ
You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, to walk on stormy seas (stormy seas)
I am strong, (strong….)
when I am on your shoulders
You raise me up…to more than I can be.
君が支えてくれるから
高い山も登れる
君が支えてくれるから
荒れ狂う海も歩ける
(荒れ狂う海も…)
今以上の自分になれる
There is no life, no life without its hunger
Each restless heart beats so imperfectly
But then you come, and I am filled with wonder
Sometimes I think, I glimpse eternity.
互いの鼓動が
激しく乱れる
君が現れ
喜びで満たされると
時々思う
永遠を垣間見たと
You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, to walk on stormy seas (stormy seas)
I am strong, (strong….)
when I am on your shoulders
You raise me up…to more than I can be.
君が支えてくれるから
高い山も登れる
君が支えてくれるから
荒れ狂う海も歩ける
(荒れ狂う海も…)
今以上の自分になれる
You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, to walk on stormy seas (stormy seas)
I am strong, (strong….)
when I am on your shoulders
高い山も登れる
君が支えてくれるから
荒れ狂う海も歩ける
(荒れ狂う海も…)
今以上の自分になれる
You raise me up
To more than I can be.
君が支えてくれるから
今以上の自分になれる
https://sentimentalblvd.exblog.jp/237519633/
さてさて、本題です。
今年になって、私の人生に音楽と料理が戻ってきたことは、思いがけない喜びです。
「失っていることすら忘れていたもの」ですから、探してもいなかったし、求める気持ちもなかったことが、ギフトとしてポンと腕の中に転がり込んできた、そんな幸せです。
「天の配剤」という言葉を使うには、ささやか過ぎる小さな日常の幸せですが、「ああ、楽しいなぁ」と思うのです。
時が流れ、人生の四季が巡り、秋(とき)が至れば自然と果実が実って落ちてくるように、気が付けばそれは私の手の中に現れました。
森の奥で古木が倒れ、そこから若木が育つように、私の心の奥深くに小さな喜びが芽吹きました。
ことの始まりは昨年の夏、母が階段から落下して腰を痛め、それまでより格段に出来ることが減ったことでした。
料理上手で料理自慢だった母が、あっけなく料理をすることへの情熱を失いました。
病気休職中の私が、料理を含む家事をバトンタッチすることは容易いことですが、家事全般は侮れない「リハビリ力」を秘めたものですので、先回りしてそれを奪うことを私は恐れました。
母が出来ないものを見分けてフォローし、当人にとっては少し負荷が掛かるものであっても、「腰を痛めた老人を労わらない怠け者の娘は全然当てにならない(怒)」と奮起して貰いたいと思ったのです。
そのように様子を見ながら夏秋冬を過ごしたのですが、母の回復は遅々として進みませんでした。
というよりも、母の認識に、娘の私は自分の延長線上にあり、自分が出来ないことを私がフォローすることを含めて「自分が出来る範囲」として、不足を感じず満足していると思える節が見受けられるのです。
母の出来ないことが増える分、私にして欲しいことが増えるのは自明のことですが、「自宅療養」している私と母には、四六時中それを可能とする時間があることが問題でした。
先に音を上げたのは、私です。
このままを続けていては「私自身の」療養がままならず、それがストレスになっていて本末転倒です。(嘆息)
そこで、ささいな口喧嘩をきっかけにして、思い切って私の生活時間帯を両親とずらすことにしました。
母の起床時間は朝の8時、その前に私は入浴と朝食を済ませて自室に引き上げ、昼食と夕食は父と母が済ませた後の時間に取るようにしました。
同じ家に暮らしているのですし、買い物や病院や鍼治療の通院は私が付き添いますし、母が「本当に」出来ないことは、声を掛けてくれれば大事に至らないだろうと思ったのです。
当初は「孝行心」が足りないような忸怩たる思いも去来したのですが、、、いざ切り離してみると、、、何と言うか、、、自由なのです。
自由で楽しくてやめられなくなりました。(笑)
何が自由なのかというと、あまりに「小っちゃくて」笑ってしまうようなことです。
それまでは朝昼晩の食事を共にしていましたので、寒がりな母に合わせた室温の台所で、「ネバーエンディング・ホットフラッシュ」の私は、一年中汗を拭きながら食事をしていたのですが、自分仕様の室温が可能になると格段に汗の量が減りました。(万歳)
食事時間のテレビは、母の趣味を優先していましたが、私一人なら見たくないものを見なくていいということに気付いた時、それが結構ストレスだったのだと知りました。(笑)
そして閃きました「ああそうか、テレビが苦痛ならYouTubeで音楽を聴いてもいいんだ♪」と。
それから料理です。
私は、去年の4月に2回目の放射線治療を受けて以来、まともに「空腹」を感じるのは昼食だけになっています。
ですから、それまでの朝食と昼食は適当で夕食がメインという習慣を捨て、昼食メインの食事をするようになりました。
私が昼食にガッツリと料理をし、多めに作って残しておけば、両親の夕食はそれを温め直せばいいので一石二鳥です。
「昼食」に肉や魚もしっかり食べるべく、自分が食べたいと思うものを時間をかけて料理をし、その間は、クラシック、オペラ、ジャズ、ロック、その時の気分で好きな音楽を大音量で聴いています。
そして思い出したのです、もう30年前、大学で一人暮らしをしていた頃、私は料理をすることが好きだったし、こうして好きな音楽を聴きながら料理をして楽しんでいたことを。
その頃の私は「料理上手」と評判で、友人たちを下宿に招いては料理をふるまっていたのです。
大学を卒業して地元に帰り、馬車馬のように働く社会人になって幾星霜、母が作ってくれる食事が有難く、自分が料理する余力などどこにもない生活を30年近く過ごし、今再び、ゆっくりと時間が流れる暮らしをしてみれば、「料理も楽しいし、音楽も楽しい」と再発見するのですから、長生きはしてみるものです。(笑)
、、、で、『You raise me up』です。
私は、「気持ちが沈み 心が疲れたら 困難に見舞われ 重荷を背負ったら 静寂の中で待つ 君が現れ 隣に座ってくれるまで」という歌詞にハッとしたのです。
「料理と音楽」というギフトを受け取った私は、これまでに「気持ちが沈み 心が疲れたら 困難に見舞われ 重荷を背負ったら」ということが多くあったけれど、人生の歩みは決して賢明でも効率的でもなかったけれど、自分が大切にしたいと思うものを守りながら、諦めることなく歩き続けることだけは貫けたのではないかと。
そして今ここに至った私は、「静寂の中で待つ 君が現れ 隣に座ってくれるまで」ことを意識したわけではないけれど、結果としてギフトを受け取れるまで「待つ」ことが出来たのではないかと、少し自分を誇らしく思えたのです。
(おしまい)
とても素敵な曲を教えて下さってありがとうございます。
心の奥深く滲みて癒されますね。
すべてのものは主より出づ
われらはただその聖手より受けて、聖手に返したるなり
の聖句を思い出しました。
ふるゆらさんがいつも仰っているように、すべてのことは神の采配が大きいですよね。
ふるゆらさんは神様にすごく守られていると思います。
迷える私達に今後も御教示くださいませ。
takakoさん、そーなんですよ、いろんなことがありますが、つまるところ、私は果報者です。(笑)
凡人の私なりに出来ることはして、「まぁ、こんなもんかな」と思えたら、後はいいことも悪いことのように思えることも、やがていいことになるのだろうと信じて、「静かに待つ」これに尽きます。
私は毎朝、私を護ってくださっている方々に言っています「私は待てますから、ええようにしてください、合掌。」(笑)
こんにちは。
私も音楽はジャンルを問わず大好きです。
若かりし頃はジャズを聴くために一夏をNYのハーレムで過ごしたこともあったし、一時期はハードロックをヘッドホンでガンガン聴きながら眠りにつくのが習慣だったこともありました。
最近はアップしてくださったようなインストルメンタル系やクラッシックを聞くことが多いです。
この3〜5月にチケットを抑えていた小曽根さん他のジャズの公演や歌、ピアノコンチェルトなど全てキャンセルになって、半年ほど生の音楽に飢餓状態でした。
最近演奏会も入場者を半数に減らすなどして再開され、リストのピアノコンチェルトを二日続けて聴いて、その翌日に二台ピアノで「展覧会の絵」を聴き、1日空けて昨日はモーツアルトのピアノコンチェルトを聴いてやっと落ち着いたところです。
そして今日、
元々良い曲ですが、オリジナルよりも心に沁みました。
ふるゆらさんの文章も深いですね。
ありがとうございました。
金太郎さんのご趣味は多彩で、しかも造詣が深くていらっしゃるんですねぇ、尊敬です。
私は何もかも「食い散らかし気味」なので(笑)、マジ、リスペクトです。
今回私の音楽の「復活」は、何故だか急にエリック・クラプトンの『Wonderful Tonight』が脳内でリフレインして、YouTubeで再生したのです。
文字通りトキメキました。
乾いているとも思っていなかった乾いた心に、音のシャワーが降り注いだようでした。
もちろん自室ではずっと好きな音楽を楽しんでいたのに、何が違うのか分からないのですが、料理をしながら聴く『Wonderful Tonight』は別物でした。
これが、秋(とき)が至るということなのでしょうね。
…マーティン・ハーケンス さんの you raise me up
初めて聴きました 素敵な声です 話の経過も nice !
画面から見る、路上で聴いている人々の表情も、good,
nice!
ハーケンスさんの出で立ちも年齢も人生も現れているように
思います。人もドラマチックですね。私もオペラ好きです。
良い方を教えて頂きました。
音楽は年齢ごとに好みが多少変わって行くと思いますが、
私はどちらかと言えば詩より曲の旋律が心に響くのが好みです
その意味では讃美歌はとてもよくできていると思います。
ふー、 ふるゆらさんも、色々と試行錯誤
されているのですね。
ほんとに人生は、こんなはずでは・・・と
思う人、沢山おられるでしょうね・・。
考える人!実践されていますね!!
sizuさんのお気に召して嬉しいです。
マーティン・ハーケンスさん、歌声も本人も素敵ですよね♪
こんな歌声の持ち主が市井に埋もれて「パン職人」をされていたんですね。
経歴を知らずに聴いても素晴らしいですが、経歴を知ると、グッときます。
この星を彷徨う旅人同士、同朋に出会えたような喜びが湧きます。