ああ楽しかった♪次はパラリンピックが楽しみです♪ (nya.1755)
無観客のオリンピック、アスリートの息遣いに心震えました。 (2021年8月20日)
史上初「無観客」で行われたオリンピックが終わりました。
もちろん、オリンピックに向けて全てを犠牲にして己を高め、結果見事なパフォーマンスで栄光を手にしたアスリートの方たちには、これまで通り万雷の拍手と声援で、その偉業を称えてあげたかったと思います。
望む結果が得られなかったアスリートの方たちへ、今は失望に胸が塞がれていても、それでもあなたたちの挑戦は素晴らしいのだと、暖かい拍手を贈りたかったです。
そして何より、日本の子どもたちに、自国で開催されるオリンピックを肌で感じる機会を与えてあげられなかったことが、何より残念でした。
ただ私は、それらを超えて「無観客のオリンピック、なかなかいいな」と思いました。
スポーツと商業が結びついて久しく、世界一を決める頂上決戦ともなると、どの競技でもかき集められるだけかき集めた観客を詰め込んで、アスリートと観客ともに興奮の渦に巻き込まれるようにして試合が行われます。
それはスポーツでありお祭りであり、スポーツを楽しむ醍醐味でもあります。
でも、今回の東京オリンピック2020には「興奮の渦」はなく、ただただ、剥き出しのトップアスリートによる競技がありました。
もう長くスポーツと不可分だと思われていた観客の声援を削ぎ落してみれば、そこには、普段は歓声に包まれて届くことのなかった様々なものが鮮やかに浮かび上がりました。
アスリートの息遣いや靴音、体と体がぶつかる時の鈍い音や強くボールを叩く音、競技に使われる器具の軋み、声を枯らして必死に味方に指示する鬼気迫る怒声。
アスリートの方たちも、自分たちの研ぎ澄まされたパフォーマンスを多くの人に見て貰い、称賛されてこそやりがいを感じる部分は必ずあることでしょうが、それでも、自分の全てを捧げて研鑽を積んできた競技のトップに立ちたいという、アスリートの原点となる強い意志が損なわれることはありませんでしたし、それこそが、観ている者の心を震わすものなのだと思いました。
それはちょっと、この世ではない異空間で行われているような非現実的な感じ。
神々が住まう国にトップアスリートの方々が招待されて、何千人や何万人の観客よりもっと大きなものに人間の底力を披露しているような不思議な感覚。
地球規模の「奉納試合」が繰り広げられているのを テレビを通じて凡人が覗き見ているような感じでした。
次はいよいよ「東京パラリンピック2020」、楽しみです。
パラリンピックはもちろん、体に障害を持ったアスリートの方々が競うのですが、競技によって障害の度合いによって異なったルールの上で競い合います。
でも、パラリンピック競技を一度でも真剣に見ればすぐに気付くことですが、アスリートの方々を便宜上「障害の度合い」でカテゴリー分けするものの、同じカテゴリーであっても「同じ障害」の人など殆どおらず、一人一人すべて異なる障害を抱え、克服して競技に挑んでいます。
私はいつも思うのです。
そのようなパラリンピアンの競技に挑む姿こそ「人間本来の姿」だと。
何も「障害」を持たずに生きている人などこの世にはいません。
パラリンピアンの障害者のように目に見える形で体に「障害」を持たなくても、心が「不自由」な人はゴロゴロいます。
人は誰しも「歪な形の心」を抱えていて、その不自由で不器用な自分を嘆きながら励ましながら、それでも何とか補おうと孤軍奮闘するのです。
他者にあって自分が持たざるものを切なく焦がれながら、自分が持っているもので必死に踏ん張って生きるのです。
そういう意味で、私はパラリンピアンにすごく共感しますし、彼らの競技を見ることが楽しくて仕方ありません。
「東京が終わったから次の楽しみはパリ?」、、、いえいえいえ、まだまだ、東京オリンピック2020の楽しみは半分しか終わっていませんよ。
等しく障害を持つ者同士、大いに楽しみ、大いに称え合いましょう。
(おしまい)