あまりに切ない今年の梅雨明けです (nya.621)

夕暮れ

心して生きようと思います (2018年7月13日)

「西日本豪雨災害」と名付けられた今回の大災害は、あまりにも多くの人命を奪いました。

身近に起きた大災害にもかかわらず被災しなかった私は、テレビを通してみる被害の大きさに「え?」と思ったまま立ちすくんでいます。

「台風でもなく地震でもなく津波でもなく噴火でもなく、こんなことが起きるんだ」ということに、理解が追いつかない非現実感が今もあります。

お亡くなりになられた方のご冥福を 行方不明の方が一刻も早く見つかることを祈ります。

悲嘆にくれる被災された方々の酷暑の中の復旧作業が、これ以上の過酷なものにならないよう、7月なりに穏やかな天候であることを祈ります。

夕暮れ

私が【乳癌ステージ4】だと知った2014年にも、同じ西日本の広島県で、集中豪雨の大きな災害があり、多くの人命が失われました。

その時もまた、今と同じように茫然としました。

近未来に尽きると思われる私の命ではなく、突然天災によって多くの命が奪われる・・・。

何やら「道理が合わない」ような、居心地の悪さがありました。

もちろんそれは感傷でしかなく、私の視野があまりにも狭くに自分自身にフォーカスしているからそのように感じるのであって、古今東西、このような事例は枚挙に暇のないことも分かってはいるのです。

ただ、自分が末期がんだと知って衝撃を受けたまま、天災によって奪われる命のことを思う時、改めて「生きること」「死ぬこと」の意味を考えずにはいられませんでした。

そしてこのこともまた、古今東西、多くの賢者によって議論されても結論の出ない、正解のない問いだということも分かっているのです。

夕暮れ

今回の「西日本豪雨災害」を目の当たりにして、2014年に考えたことを改めて肝に銘じて生きていこうと思いました。

人がいつ死ぬのか、それは選べません。

自分がどのように死ぬのか、どれほど綿密な未来予想図を妄想しようとも、やっぱりそれは選べません。

【乳癌ステージ4】である私は、乳がんが進行して死に至る未来への「覚悟」を求められますが、その確率は、交通事故死、天災による突然死など他の要因で死に至ることと変わらないのです。

そう思った時、私は思ったのです。

「末期がんである私と、健康な人と、何にも変わらないじゃないか」と。

「誰だって死は身近であるけれど、それを意識しないで生きる人と、死を意識しながら生きる人の違いがあるだけじゃないか」と。

「死に方は選べないけれど生き方は選べるのだから、明日死んでも悔いのないように誠実に、でも楽しんで生きよう」と。

雨上がり

あれから4年の歳月が流れました。

自分が末期がんだと知った当初、想像した近未来とは全く異なる穏やかな時間を長く過ごすことを赦されています。

天地人、あらゆる恵みをいただいて今の穏やかで豊かな時間があることに対する感謝を忘れたことはありませんが、今の日常を「当たり前」だと思っている自分がいます。

「当たり前」がいつまでも続くことを前提に、将来への不安に悶々とする自分がいます。

心して生きねばなりません。

時の流れを慈しんで生きねば罰が当たります。

今日の空は有難いことに「薄曇り」です。

この「薄曇り」の空が、被災地の上まで続いていますように。

願わくば、あと数日このような「薄曇り」が続きますように。

夜明け

次は

です。

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あまりに切ない今年の梅雨明けです (nya.621)” に対して4件のコメントがあります。

  1. ゆうこ より:

    本当にそうですね
    たくさんの命が地球上に満ちて素晴らしいことがたくさんあるということは
    たくさんの命が一瞬にして奪われたり、陰惨なこともまたたくさんあると
    いうことですね
    ワールドカップ観戦のようにドキドキを味わい歓声をあげるような
    心踊る楽しいことがあるということは、また、心ひしがれるような
    絶望、悲しみがあるということですね
    地震、津波、土砂災害、落雷、洪水、火事、台風、竜巻。
    これらが一切なかったら、私達は果たして平凡で穏やかな日常に
    感謝出来るのでしょうか
    私達が一切手出しも解決も出来ない自然災害。
    生きるのも死ぬのも人間は何一つコントロールし得ないということは
    人間を超えた何か超人的な力が一切の権限を握っているということですね
    であるならばそれに一切を任せるしかないわけです
    そしてそれは目に見えない。見えないから忘れてしまい
    思い出しもせず、目の前のあれやこれや生活の忙しさにかまけて
    一番大切なものを放っぽり投げて、あれをしようこれをしよう
    あそこに行こう、あれを食べよう、そんな事ばかり考えてるのが
    私達人間というものなんでしょう
    それをこういう形で喚起されているのかも知れません

    1. ふるゆら より:

      はい、ゆうこさん、本当に私という人間は浅はかです。

      「当たり前の日常」が奇跡なんだと何度肝に銘じても、喉元を過ぎれば「当たり前の日常」が続くことを前提にして贅沢な悩みを悶々と思い煩うのです。

      『いつも何度でも』♪

      繰り返すあやまちの そのたびひとは
      ただ青い空の 青さを知る

      生きている不思議 死んでいく不思議
      花も風も街も みんなおなじ

      ・・・青空の青さが胸に沁みます。

      1. ゆうこ より:

        いや、違います!ふるゆらさんを責めてません
        ごめんなさい、私の書き方が悪かったですね
        こう…文字を打つ時ガーッとすごいスピードで
        勝手に指が動いてる感じなんです(指に責任転嫁か)
        すみませんキツイ文章でした
        浅はかについては私の右に出る人はいないでしょう
        広島の方達は原爆を落とされても復興した人達です
        あの時は都市部の方達が災難でした
        今回は山に近い所でしたね
        つまり不公平はなく満遍なくどこでも起きうるんですね
        7年前の東北地震の時はうちも結構大変でしたよ
        電車が止まったので線路の上をてくてく2時間かけて
        会社から帰りました
        家の中…テレビ、冷蔵庫、茶箪笥、タンス倒れてました
        ガスと水が止まって遠くの中学校に来た給水車に長い
        列を作ってならびポリタンクに水を汲み、うちは車が
        ないので歩いてそれを家まで運びました
        私はその時初めてアフリカの子供達が早朝から毎日
        2時間かけて水汲みの往復をしてることを考えたのです

        1. ふるゆら より:

          ああ、私こそすみません。

          書き方が曖昧でした。

          ゆうこさんからいただいたコメントで自己嫌悪したわけではないんです。(笑)

          もうね、なんどもなんども、自分に言い聞かせないと、末期がんの体で穏やかに生きているという「ただそれだけで」とんでもなく有難いのだということを忘れるのです。(嘆息)

          感謝して生きることほど大切なことはないのですから。

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