京都の南座で「顔見世」を観る (nya.71)
あれから27年、四半世紀が過ぎたの・・・ですね (2014年12月)
12月吉日、京都の南座で「顔見世」を観劇しました。
先月「富士山見物」に行ったばかりなので、【乳癌ステージ4】としてはアクティブ過ぎないか?と、思わなくもありませんが、前々からの「約束」でしたし、京都なら日帰りが可能なので行ってきました。
「約束」は半年前の6月、友人と母親と私の3人で「湯葉会席」をいただいた日にされました。(参照:「極楽、極楽」京都で湯葉会席、一献傾ける (nya.52))
タクシーで、京都駅から南禅寺に向かう途中、南座の横を通った時、友人が「私は一度も歌舞伎を観たことがないから、観てみたい。」と言い出しました。
私が「素人が歌舞伎を観るなら、顔見世が『オールスター・アラカルト』だから面白いし、分かりやすいでしょう。12月ですな。」と答え、友人が「んじゃ、そーする。12月で決定」と約束が成立したのでした。
母親も「私なんか、70年以上生きているけど、歌舞伎を観たことがない。」と言うので、「んじゃ、この3人で行きますか」と、半年も先のこととして「余裕をかまして」いたのです。
よもや、11月に「富士山見物」に行くことになるとは思ってもおりませんでした。(笑)
そして12月。「チケット取ったよぉ、花道の横の席」と、友人から連絡があり、前月の旅行で散財したことなど「無理やり忘れて」京都に向かいました。
念のため、
顔見世(かおみせ)は、歌舞伎で、1年に1回、役者の交代のあと、新規の顔ぶれで行う最初の興行のことである。江戸時代、劇場の役者の雇用契約は満1箇年であり、11月から翌年10月までが1期間であった[1]。したがって役者の顔ぶれは11月に変わり、その一座を観客にみせ、発表するのが顔見世であった。歌舞伎興行において最も重要な年中行事とされる。
ウィキペディアから引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%94%E8%A6%8B%E4%B8%96
です。
そして、江戸時代から続いているだけあって、顔見世の公演は「長時間」です。
私たちは「昼の部」を観劇したのですが、午前10時30分から午後3時50分まであります。(そして「夜の部」は午後4時30分から午後9時までです。合掌)
静かに観ることが大前提ですが、ここまで長時間になると「かしこまって」観ることは不可能です。
前半は「しらふ」ですが、途中の幕間の30分で「お弁当を食べ、昼酒を仕込み」、後半は「ほろ酔い」で観劇します。
これを「極楽」と言わずして・・・・、です。
独特のせりふ回しではありますが、中学生程度の古文が分かれば問題なく「付いていけます」し、なにより、テレビで拝見する「歌舞伎役者」さんが、オールスターで入れ替わり立ち替わり登場して飽きません。
友人も母親も「大満足」の様子でした。
私自身は、京都の大学に進学しましたので、南座で「歌舞伎」を観ることが初めてではありません。
ちょうど、先代の『市川猿之助』さんの『ヤマトタケル』が大ヒットしている時でしたので、「白鳥のような、そうでないような(笑)」市川猿之助さんが白い鳥の衣装で「宙づり」になって飛んでいくのも観ましたし、顔見世も観ました。
大学生の私は20才、今の私は47才。
なんと27年ぶりの、京都『南座』です。
あの頃の私は、27年後の自分をどのように想像していたのでしょう。
今となっては思い出すことも出来ない自分がいます。
少なくとも「結婚して子供がいる」想定だったと思います。(笑)
子供の頃『ノストラダムスの大予言』が流行って、「地球が滅亡する西暦1999年、私は32才」と計算し、その時の想定でもやっぱり「結婚して子供がいる」設定だったなぁ、と思い出しました。(笑)
20才の頃、本当に未熟だった私は、年月が人間を成熟させるものだと「無邪気に」信じていて、大人になれば「今よりましな」人間になれるのだとばかり思っていました。
ところが、27年経過した今の私もまた、20才の頃と変わらず「未熟」です。
自分の「未熟」を恥じ、自分を責めてばかりいたあの頃の自分に駆け寄って、「そんなに焦らなくても大丈夫。27年経ってもあんまり成長しないから」と教えて、脱力した肩をポンポンしてあげたいくらいです。(笑)
ただ、一つだけ成長したことといえば、「自分の未熟を受け入れることが苦にならなくなった」ことでしょうか。
「ほんとうに、私という人間は未熟で嫌になる」という思いを、何度も何度も経験して時間を過ごし、他人からであろうと自分からであろうと、自分の未熟さを指摘されても、「はい、その通り」と思える『鈍感力』・・・『寛容』を身に着けました。
経験を通じて、とことん「自分が未熟な人間なんだ」と納得したら、そんな「未熟」な自分を受け入れてくれている周囲に感謝しますし、周囲の「未熟」さも、「まったくもって相見互い、です」と赦せるようになりました。
失敗しても反省せず「神や仏じゃあるまいに、人間だもの、完璧なことは出来んよ」と、「未熟」に胡坐をかくこともしばしばですが、それでも、22才の私よりは、少しは「寛容」になれているのでは?と思います。
京都の南座で「顔見世」を観劇したら、27年前の自分に会うことができ、ほのぼのしました。
それにしても、22才の私に、「27年後、結婚してないし、子供もいない、猫を一匹飼っている。しかも46才で【乳癌ステージ4】の診断を受けるよ」と伝える手段がなくて「本当に良かった」と胸を撫で下ろし、帰途につきました。(笑)
次は
2015年お正月 「新しい私」は1才です。 (nya.72)
です。