ある晴れた日「夏至の頃」河川敷散歩 (nya.2434)
「変わるものと変わらないもの」が愛おしいのです (2023年6月30日)
折りに触れ、鴨長明の『方丈記』、有名な冒頭の一文が頭を過ぎります。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。
方丈記は800年ほど前、鎌倉時代の随筆ですが、現代語訳など必要ない程、現代に生きる私の心にも馴染みある感慨を簡潔にまとめてくれています。
、、、で、単純な私は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」という一文に触発されて、季節が移り変わる度に、いそいそと河川敷を眺めるという寸法です。(笑)
私が足繫く立ち寄る河川敷は、川沿いに車を走らせればあと15分ほどで河口という場所にあるので、いつ行っても川の流れは緩く、普段意識することのない「時の流れ」を可視化してくれているように感じるのです。
道沿いの河川敷は、ぼんやり車で通りすぎれば、いつだって雑草が茂っている草原に過ぎず、何も変わらない印象なのですが、よく目を凝らして見れば、四季折々の異なる野の花が咲いていて、これがまた、鴨長明さんが仰るところの、
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
そのものなのです。
毎年、同じ月の同じ日に河川敷を訪れたとしても、そこに咲く野の花が去年と全く同じということはなく、その年その年の気温や日照時間によって、違う花が主役然と咲いています。
あるものは咲き始め、あるものは咲き誇り、あるものは実を結び、あるものは立ち枯れる様は、
朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。
そのものです。
鴨長明さんがもっともらしいことを語らず、「知らず」ときっぱり仰っているところが私的には大変気に入っています。(笑)
要は、この世が「諸行無常」なのは知っているけど、なぜそうなのかは知らない、でも自分という人間もまた「諸行無常」の一部であることは知っている、ということが肝要なのだということでしょうか。
そんなこんなで、今年もまた「夏至」という節目に河川敷を訪れて、空を見上げ、風に吹かれ、キラキラと輝く川面を眺め、その時に咲いている野の花と自分は、何も異なることはないと思い、「ああ、諸行無常だなぁ♪」と晴れ晴れと深呼吸すると、、、至福です。
その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。
「鴨長明さん、平凡で穏やかな明け暮れを過ごす朝顔の露は、幸せにやっていますよ」と心の内で呟いて、帰宅の途につきました。
(おしまい)
ふるゆらさん 風太くん お久しぶりです。
といっても、今も毎日おじゃましております。感謝です♀️
今日実家の本箱に、ありました。持って帰ってきました、方丈記!
明後日は七夕ですね。⭐️⭐️⭐️
風太くんふるゆらさん、ご無事で夏を過ごされますように!
2434号の数字に驚き、感謝しつつ、これからも毎日楽しみに読ませていただきますね☺️
おおお、お久しぶりです、ハナさん。
ご健勝のご様子、何よりです。
『方丈記』、、、何度も読破しようと試みて毎回挫折する私は、お蔭で冒頭の部分だけ何度も読み返すことになり、脳に刻まれたのでした。(笑)
雨の日の梅雨寒と晴れの日の酷暑のギャップが、厳しすぎる今日この頃(嘆息)、ハナさんにおかれましてもくれぐれもご自愛ください。
梅雨も終盤戦突入です、土用を経て、立秋、お盆、「暑さ寒さも彼岸まで」です、お互いに頑張り過ぎない日々を送り夏をサバイブしましょう♪