「冬は曙」を楽しむ  (nya.1895)

冬の曙

冬の曙

夜明けが遅い冬の楽しみ方 (2022年1月7日)

平安時代、西暦1000年頃に『枕草子』を著した清少納言さんは、「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬は早朝」と言われました。

鮮やかな四季のあるこの島国に同じく暮らす者として、1000年の時を経ようとも異論があるはずもありません。

私もまた「冬はつとめて」が、趣のある時間帯だと思っております。

冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もて渡るもいとつきづきし。※冬は早朝。雪が降っているのは言うまでもなく、霜がとても白いのも、またそうでなくても、とても寒い朝に、火などを急いでおこして、炭を持って行くのもとても似つかわしい。※

冬の曙

ただ、、、清少納言さんの仰られる「つとめて=早朝」は、夜が明けて辺りが明るくなり、雪が降っていたり、霜が降りて真っ白くなっているのが見える時間の「早朝」であって、私が冬の楽しみにしているのは、その前の時間帯、つまり「あけぼの」なのです。

私の起床時間は、1年を通じて6時前後です。

夜明けの早い夏ともなれば、6時起床で「あけぼの」が見えるはずもなく、夏至の頃なら4時半頃が日の出の時間ですから、もはや燦燦と太陽が輝いておられます。

翻って、冬至の頃の日の出は7時頃ですので、6時に起床した時点では未だ真っ暗、つまり、

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。※春は夜明け。だんだん白くなっていく、空の山と接する部分が少し明るくなって、紫がかっている雲が細くたなびいている。※

の冬バージョンが楽しめるという寸法です。(笑)

冬の曙

自室の窓は南東に面しており、その窓の前にPCを置いているのですが、現代人の悪癖「朝起きたら、様々なスイッチに触れずにはいられない」にすっかり染まった私は、朝起きると同時に、もはや無意識にPCの起動ボタンに手を伸ばし、さらに無意識にPC画面の前に着席します。(嘆息)

そして、PC画面の向こうに広がる夜明け前の、街灯が僅かばかり点在する田舎らしい山際を眺めるのです。

この時点では、雪が降っているのか霜が降りているのか、晴れているのか曇っているのかも分かりません。

そして思います「今日はどんな夜明けかなぁ、朝焼けに染まった東雲(しののめ)は見えるかなぁ」と。

冬の曙

さっきまで街灯しか見えなかった所に、薄っすらと山の稜線が浮かびあがります。

そのうちに雲の有無が見えてきます。

わずかに明るさを含んだ空は、見慣れた山を青い水墨画のように見せ、平凡で平凡な田舎の山なのにちょっと神聖な感じすらします。

みるみる明るくなる空は、ある日はオレンジ色に、ある日はピンク色に染まり、またある日はほんの数分、茜雲を見せてくれたりします。

空が明るくなっていくにつれて、街灯の灯りしか見えなかった風景の主役であった街灯が一つ一つ明るさの中に溶けていき、その頃には、雪が降っているのか霜が降りているのかが分かるようになって、いよいよ「冬はつとめて」の時間が始まるのです。

冬の曙

私の胸にはしばしば、「思えば遠くに来たもんだ」という言葉が去来します。

馬車馬のように働いていた30年、自分が毎朝、夜明けの空を楽しみに待つ冬を過ごすことになろうとは思いもよらないことでした。

時間の流れ方というのは不思議なもので、同じ時代、同じ場所、同じ家に暮らそうとも、まったく異なる別の次元に身を置くことが出来るのだなぁと、感心します。

まるで「並行世界=パラレルワールド」のようです。

冬の曙

私が出会い、すれ違う人たち、街で行き交う人々、漠然と、同時代を生きる同質のバックグラウンドを持ち、ある程度価値観を共有していると思っている人たちが、幾重にも重なった、それぞれの異なる時の流れの中で生きているのだとしたら、この世は無数のパラレルワールドが同居していて、それなのに、誰も気づくことなく「同じ世界」に生きていると思っているのかもしれない、そんなことを思います。

「小人閑居して不善を為す(つまらない人間が暇でいると、ろくなことをしない。)」は、私のモットーですが(笑)、馬車馬からプータローに転身して数年、閑居の末に、つれづれにこんなことを思いつく始末です。

2022年は始まったばかり。

さらに「プータロー道」を精進することで、私は何を想うのでしょう。(笑)

ともあれ、「夜の明けない朝はない」ことの幸せをかみしめる「冬はあけぼの」でした。

(おしまい)

冬の曙

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「冬は曙」を楽しむ  (nya.1895)” に対して2件のコメントがあります。

  1. sizu より:

    ・・・冬は曙 美しいです
    ふるゆら納言さんは 早く起きられるのですね
    感心です。
    一年の計は元旦にあり、と言いますが、一日の計も
    朝でしょうね
    千年前の曙は今と、そう変わらないでしょうか
    夜は全く闇でしたから 朝の曙は感動でしたでしょうね
    今と違い二階屋はなかったでしょうから
    朝戸出に恋人を見送った時見るのか、送らないのか
    はたまた、眠られず早く起きた時見たのか、想像しますが、
    ふるゆらさんも清少納言さんに負けていない文章力です!

    1. ふるゆら より:

      sizuさん、お褒めいただきありがとうございます。

      文化というものは、それまで食べることだけで必死だった人類に、時間的な余裕が生まれた時に現れると言われますが、紫式部や清少納言を生んだ平安時代も、一部の貴族だけとはいえ、生きることに汲々としなくてもいい人たちがいて、そのような人たちが思うことは、衣食住の足りた現代人と大差ないのだなぁと感じます。

      「朝廷」というものは、本来、朝日が昇る時間に合わせて官位の高い順に「廷」に並んで、皇帝に挨拶するものだったようですし、平安貴族の「始業時間」は午前3時、午前中で終業だったようです。

      平安貴族さんたちはもちろん、皆「超」早起きだったのです。(笑)

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