乳癌のこと、同僚に言うのは止めました (nya.26)
ありがとう、吉田拓郎さん、『今日までそして明日から』♪ (2014年3月19日)
最初に「自分が乳癌」だと知った時(参照:乳癌の検査 針生検(細胞診)であやしい細胞を調べる (nya.4))、娘が乳癌だと知った母親のフォローをしてもらうため、取り急ぎ、友人に経過を「お知らせ」しました。
それから、私が闘病生活に入ることで、仕事上、最も被害を大きく受ける直属の上司と、同僚1名にも、その段階で「お知らせ」しました。
その後、「左乳房全摘手術+乳房再建」と医者に告げられた時(参照:「正式に」癌告知を受ける① (nya.9))は、会社を欠勤する以上、私に関係する同僚全員に「乳癌でした。ご迷惑をお掛けしますが、頑張って闘病します。」と、伝えることを覚悟しました。
しかし更に状況が変化し、「骨転移無数」「リンパ節転移無数」であることが判明し、【乳癌ステージ4】と診断を受け(参照:驚愕のPET/CT画像診断検査 ”結果発表“ (nya.13))、手術はなくなりました。
看護師の方から、転移の有無が分からない内は、親に告知するのも待つように言われていましたので、もちろん、会社の同僚にはおくびにも見せず、「いつも体調不良の私ですが、ここのところ芳しくなく、通院が増えてます。」とのみ、伝えていました。
お陰様で、癌と診断を受ける前から何度も休職をしたりして、同僚は皆、私に対する「共通認識」として、「気は強いが、身体は弱い」という合意が形成されています(笑)
今回のことも「また、体調が良くないらしいよ」程度に受け止められ、通院が増えた「方便」も、すんなり受け入れられてました。
放射線治療を受けるための10回連続通院も、「婦人科の治療を固めて受けることになりました。毎朝病院に寄ってから出社するので、遅出のシフトに代えてください。」とお願いし、「ああ、そりゃ大変。体調が良くないみたいだね。シフト変更の件は、調整するから大丈夫。」と暖かく認めてくれています。
職場の同僚に、広く自分が癌だと伝えるかどうか、よくよく考えましたが、結局、最小限の人にだけ伝えることを選択しました。
手術を受けるなら、隠しようもなく、公表したと思いますが、手術はなくなりました。
このまま、出来る限り普通の生活を「長く」続けることが、私の目標となったのです。周囲の人にも、特別な気遣いをしないで「普通」でいて欲しい、と思い選びました。
最初に「自分が癌」だと受け入れた時に思ったのは『自分が癌だと知った今から、「癌になった」のではない。これまでも【乳癌ステージ4】=末期癌の身体で生きてきたのであって、何にも変わっていないんだ。』ということです。
自分に対する認識は、「乳癌」という病名によって激変しましたが、身体の方は、「乳癌だと知った」からといって、1ミリも変わってないのです。
これまでも、ぐずぐずと体調不良を抱えながら、優しい同僚に助けられ、かばってもらい、何年もフルタイムで働いてきたのです。ならばこれからも、周囲の人に助けて貰いながら『同じ身体で、同じように働くまで』です。
むしろ、これから「治療」が奏功すれば、少し楽になるかもしれません。
同僚に乳癌のことを伝えると、「同僚が、これまでガンガン(ダジャレではありません)回してきていた仕事を(癌の人にこんな仕事を振ってもいいの?)と気を回して減らしているんじゃないか」と、常に「腹を探る」ようになる、自分の心の動きもかなり「面倒臭い」と思ったのです。
今までの生活から、「何も引かないし、何も足さない」と、腹をくくりました。
吉田拓郎さんの『今日までそして明日から』(吉田拓郎 作詞・作曲)の心境です。
歌詞をお借りすると、
私は今日まで生きてみました
時にはだれかの 力を借りて
時にはだれか に しがみついて
私は今日まで生きてみました
そして今 私は思ってい ます
明日からも こうして生きて行くだろうと♪
ありがとう、吉田拓郎さん、この歌を唄ってくれていて助かりました。
次は
放射線療法4回目&ホルモン療法開始&母親参観日 (nya.27)
です。