クリスマスプレゼントは、もう貰っていますよ。 (nya.2245)

冬至の頃 川辺の夕景

冬至の頃 川辺の夕景

「祝福」を受けているから平凡な日々があると思うのです。 (2022年12月23日)

生きているといろんなことがあります。

人の一生は「生病老死」を通り抜けるものであり、「生病老死」に出会う度に、人の心は大きく揺さぶられ「喜怒哀楽」を味わいます。

だから、人の心は揺れ続けているのが「普通」なのですが、「喜と楽」の時には大きく揺れても疲れを感じないくせに、「怒と哀」の時には小さい揺れでも煩わしく思えて溜息をついてしまいます。

勝手なものです。

冬至の頃 川辺の夕景

 

私が深々と「生きているといろんなことがあるなぁ」と思うのは、2014年の3月に乳がんステージ4のがん告知を受け、無数のがん転移で真っ黒に写ったPET/CT画像を見て、我ながら「あ?こりゃ死ぬな」と思った経験があるからでしょう。

がん告知の際に余命宣告は受けなかったものの、「がん転移がこれほど多いのなら、5年後にはこの世を卒業しているだろう」と、自分なりに思いました。

その時の私は46才でしたので、5年後は2019年で51才、「・・・ということは2020年の東京オリンピックは観られないのか!!」と愕然としたものです。

冬至の頃 川辺の夕景

それから僥倖を得て、「この世を卒業」することなく茫々8年の歳月が流れました。

「生きていることが奇跡」「生かされていることに感謝感謝」と、有り難く思う気持ちは少しも揺らぐものではありませんが、凡人が8年も「日常」を送っていると、それはもういろんな「喜怒哀楽」が心を去来します。

命拾いをした体験をしたとはいえ凡人ですから、「喜と楽」は素直に感謝して消化できるのですが、「怒と哀」はやっぱり持て余します。

冬至の頃 川辺の夕景

私とて半世紀以上この世の荒波に揉まれており、「怒と哀」を咀嚼するスキルを持ち合わせているのです。

生来の性分が楽天的なことに加え、「山あり谷あり」の人生行路でしたから否応なくケーススタディも蓄積され・・・どちらかと言うと、人並み以上の咀嚼力です。

それなのに、持て余すのは心の奥底に「私って予定通りならもうこの世にいないはずなのに」という、罰当たりな「ひがみ根性」があるからなのです。(笑)

そんなことを思う自分自身に、ただただ溜息です。

冬至の頃 川辺の夕景

一旦「あ?こりゃ死ぬな」と思って腹をくくった時点から、それ以降の自分の人生にどこか「付録」感が付きまとっています。

本当なら無かったはずの生活を送っている「非現実的」な私に、生きていると避けては通れない、些細でくだらないことに傷付けられる「当たり前の日常」という「現実」があることが、ミスマッチな不条理に感じられて、咀嚼する前にしばし持て余すのです。

今私が味わっている「喜怒哀楽」は、思いがけず生きることを赦されているいるからこそ味わえるもの、四の五の言わずに「喜と楽」だけでなく「怒と哀」も愛おしまなければならない、、、。

、、、という「正論」を自分に言い聞かせた時もありました、、、。(笑)

冬至の頃 川辺の夕景

んがしかし、私はキングオブ凡人なのですから、腹立つものは腹立つし、しょーもないことに傷付いて絶望することも止められません。

せっかく生きることを赦されているというのに「ああ、生きるって面倒臭い、もう止めたい」と思うこともしばしばです。

でも、、、分かっているのです、、、詰まるところ、、、そういう煩わしさも含めて「生きる」ってそういうことですよね。

冬至の頃 川辺の夕景

「正味」であろうと「付録」であろうと、凡人ならば、生きることは即ち「喜怒哀楽」の感情の波に揉まれ揺れ続けること、それから逃れる術はありません。

しかし、、、そんな私ですが、何もない平凡な日常の中で生きられることが奇跡であることを身に沁みて知っています。

暑さ寒さをしのぐ屋根の下に暮らし、飢えに悩まされることもなく、衣食が満たされた暮らしを営み、こんな愚にもつかないことを悶々と考える余力があるのなら、それはもう、祝福された人生です。

「生きるって面倒臭い」と思う回数と、「生きるって面白い」と思う回数が同じ程度なら、それはもう、祝福された人生です。

冬至の頃 川辺の夕景

四季の移ろいを夢中で追いかけ、首筋を通り抜ける風で季節を感じる生を赦され、傍らでいびきをかく風太の寝顔を見て微笑むことのできる私の人生は、十分に祝福を受けています。

日常に倦み、心がささくれ立って鬱々として「生きているといろんなことがあるなぁ」と涙ぐむ時もあれば、ワールドカップサッカーでドイツとスペインに勝利する日本代表戦を観戦して「生きているといろんなことがあるなぁ・・・この世を卒業していなくてほんとによかった」と思う時もあります。(笑)

昨日、「一陽来復」(冬が終わり春が来ること。新年が来ること。悪いことが続いた後で幸運に向かうこと。陰の気がきわまって陽の気にかえること)の冬至が過ぎました。

今日は新月、満ち欠けを繰り返すお月さまも満月に向かって歩み始めます。

明日はクリスマスイブ、忙しいサンタさんへ「私はもう、祝福というクリスマスプレゼントを既にたっぷりいただいていますからお気遣いなく」と伝えて、サンタさんの仕事を一つ減らしてあげたいです。

(おしまい)

冬至の頃 川辺の夕景

 

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クリスマスプレゼントは、もう貰っていますよ。 (nya.2245)” に対して6件のコメントがあります。

  1. なんて名前にしてたんだっけ ちゅん?ちゅん太?忘れました より:

    超絶ご無沙汰してました! 私も未だに生きています 苦笑
    コロナ祭のお陰で3年も直行直帰という名のリモートワークでのんびりさせて頂いたのに
    昨年、その後の異動でも自分から希望した訳でもないのに給料も変わらないのにこんな楽な部署に異動させてもらっちゃって私ってホントについてるよなぁぁぁ と気味が悪いほどの日々を過ごしております。笑
    それでも あります あります 沢山あります。ふるゆらさんのと一緒です。↓

    >私とて半世紀以上この世の荒波に揉まれており、「怒と哀」を咀嚼するスキルを持ち合わせているのです。
    生来の性分が楽天的なことに加え、「山あり谷あり」の人生行路でしたから否応なくケーススタディも蓄積され・・・どちらかと言うと、人並み以上の咀嚼力です。
    それなのに、持て余すのは心の奥底に「私って予定通りならもうこの世にいないはずなのに」という、罰当たりな「ひがみ根性」があるからなのです。(笑)

    そんなことを思う自分自身に、ただただ溜息です。本当なら無かったはずの生活を送っている「非現実的」な私に、生きていると避けては通れない、些細でくだらないことに傷付けられる「当たり前の日常」という「現実」があることが、ミスマッチな不条理に感じられて、咀嚼する前にしばし持て余すのです。

    私の頭の中にあることを分かりやすく文章にしてくださってありがとう!
    ありがとうの気持ちを伝えたくて久々にmailをばw
    気味が悪いほど気楽能天気気質から脳内経験までもが同じです!ww
    ふるゆらさんを知るまでは、私みたいなのは世界中を探せばどこかにはいるんだろうけど
    見つける事 知り合うことなく卒業していく(俗世から)んだろうなぁと思ってましたよ 
    コンピュータ インターネットというものが無ければその通りだったのでしょうね~

    今年もどころかどうやらまだまだ続く来年 再来年もそのあとも
    お互い人間をしているが故の悲喜交々を咀嚼していくしかないですね 顎が疲れるわ
    どうーせなら楽しんで参りましょ~ ではでは

    1. ふるゆら より:

      ちゅん太さん、お久しゅうございます。

      ご無事でサバイブし、新年を迎えられましたこと、重ね重ねおめでとうございます。

      本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

      『お互い人間をしているが故の悲喜交々を咀嚼していくしかないですね』同感です。

      『顎が疲れるわ』爆笑しました。

      私が感じている持て余し気味のアレコレに共感し、秀逸な表現へ変換していただきありがとうございます。

      ほんに、ほんに、『顎が疲れる』コレです。(笑)

      歯が立たないくらい固いせんべいを少しずつふやかしながら、食べるの止めたいのに食べている、そんなしょぼい自分の絵が浮かんで爆笑しました。

      いやはや、今年もお互いに、笑門来福でサバイブしましょう♪

  2. sizu より:

    …u-m 深いですね
    何と言いましょうか
    分かる気がします。

    1. ふるゆら より:

      sizuさん、メリークリスマス♪です。

      生きているといろんなことがありますが、要は、楽しんだ者勝ちです。

      『千と千尋の神隠し』のエンディング曲『いつもなんどでも』の歌詞の通り

      かなしみの数を 言い尽くすより♪ 同じくちびるで そっとうたおう♪

      です。

      1. sizu より:

        ふるゆらさん!
        そうです!偉い!
        良いお年を!

        1. ふるゆら より:

          はい、私にとって『いつもなんどでも』という曲は、ふとした拍子に浮かび上がってきて「そうそう、そうだった」と慰めてくれます。

          sizuさんも、良い年をお迎えください。

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